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安国寺恵瓊~毛利は動かず…それでも外交僧が胸に抱き続けたもの

2018年10月17日 公開
2022年03月15日 更新

岩井三四二(作家)

毛利家紋

西軍の総大将に毛利輝元が収まった裏には、外交僧・安国寺恵瓊の働きがあった。しかし関ケ原合戦において、毛利軍は動かず、西軍は敗れた。そのとき、恵瓊は何を思ったのか。

岩井三四二(作家)
昭和33年(1958)、岐阜県生まれ。一橋大学卒業後、会社勤務を経て、平成8年(1996)、『一所懸命』でデビュー。同作で小説現代新人賞受賞。『月ノ浦惣庄公事置書』で松本清張賞を、『清佑、ただいま在庄』で中山義秀文学賞を受賞。その他の著書に、『とまどい関ヶ原』『天下を計る』『あるじは家康』『政宗の遺言』などがある。

 

七将襲撃事件の裏側で…

慶長4年(1599)閏3月、伏見の毛利家上屋敷──。

門の内外を甲冑武者が警固し、人馬が慌ただしく出入りする中、安国寺恵瓊は母屋の広間で二人の男と相対していた。

「治部少めが音をあげたか。頼りにならぬな」

上座にすわる毛利家当主の輝元が言う。鬢は白髪交じりだ。寝不足なのか眼が赤い。

「大坂を押さえられては、奉行衆もこれ以上動けますまい。内府が一枚上手でしたな」

と言うのは家老の福原広俊である。こちらは鬢も髷も黒々としている。六十過ぎの恵瓊から見れば、ふたりとも子供のような年頃だ。

──どちらも未熟じゃの。

一手先すら読めていない。内府は数手先まで読んでいるのに。情けない、と恵瓊は思う。

昨年8月に太閤秀吉が亡くなると、遺言どおり遺児の秀頼が豊臣家を継ぎ、内府こと家康や輝元ら五大老と石田三成ら五奉行が補佐をして、天下を治めることになった。

しかし幼児に天下を治められるはずがない。案の定、家康が勝手に大名衆との縁組みをすすめるなど、掟破りの挙に出てきた。三成ら奉行衆と大老の前田利家がそれを咎めたので、すわ合戦かと天下は緊張したものだ。

このときは家康が折れて無事におさまったが、ふた月ほどして利家が亡くなると、今度は加藤清正ら7人の大名が、奉行衆筆頭の石田三成を襲うという事件が起きた。

三成は大坂から伏見まで逃げてきて、いま他の奉行と共に伏見城内の屋敷に籠もっている。兵をつれて追いかけてきた7人と、城の濠をはさんで睨み合いになっていた。

朝鮮出兵時に三成が偏頗(へんぱ)な報告をした恨みを晴らすと7人は言っているが、単に大名同士の怨恨沙汰とは片付けられない。背後に家康がいて、7人をそそのかして奉行衆の力を削ごうとしている構図が見えるのだ。

三成は反撃に出ようとし、輝元に出兵を要請してきたので、輝元は一族の吉川広家に命じて国許から兵を呼びよせる一方、おなじ大老の上杉家と連絡をとり、家康を牽制した。恵瓊は使僧として家康側との連絡役をつとめつつ、家康側を攪乱する方法を進言もした。

毛利家は、三成ら奉行衆を支援する側に回っていた。これ以上、家康の勢力が拡大するのを防ぎたい一心である。

だが少し前に、大坂城を家康方に押さえられたとの報告が飛び込んできた。秀頼を奪われたのだ。大きな手抜かりだった。これでは諸大名に下知できず、家康に勝てない。

三成に知らせてやると、負けを悟ったのか、自分の始末は毛利家と上杉家にまかせると言う。下駄を預けられた輝元は悩んでいるのだ。

「長老のご意見はいかがか」

と福原広俊が恵瓊を見た。外交僧として長く毛利家に仕えてきた恵瓊は、秀吉に6万石をもらって大名扱いを受けたこともあり、家中では長老と呼ばれて頼りにされている。

「駒の動きを封じられたのでは、もはや勝ち目はござらぬ。早々に手仕舞いして、後日を期すのが得策と存ずる」

 恵瓊は答えた。加藤清正や石田三成らを駒とし、家康と輝元、上杉景勝が指す将棋は、家康の勝ちに終わったのだ。退くしかない。

「長老にもいい手はないか」

輝元は無念そうな声を出す。毛利家も一敗地にまみれた形だから、悔しいのだろう。

「なあに、雌伏して時節を待てばよろしい。これで終わりではありませぬ」

恵瓊は輝元をなぐさめた。だがこのまま家康をのさばらせていては、毛利家の将来はない。毛利家のために、起死回生の一手が必要になっていた。

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