毛利輝元像(山口県萩市)
──おかしい。動きが悪すぎる。
関ケ原の入り口にあたる南宮山の陣中で、恵瓊はただならぬ気配を感じとっていた。
大坂城で兵をあげたあと、毛利勢は他の軍勢と共に伏見城を落とし、さらに東下して尾張、三河の国境まで押し出すつもりだった。しかし敵の動きは意外に早く、尾張まで進出してきたので、三成らは大垣城の西にある関ケ原で敵勢を迎え撃つことになったのだ。
当初、毛利勢は関ケ原西方の松尾山に布陣し、大将勢として戦場全体ににらみをきかせるはずだった。しかし先に小早川秀秋の軍勢に入られてしまったので、やむなく関ケ原の東の入り口にあたる南宮山に陣をとった。
陣中には誰が裏切った、誰が内通しているといううわさが飛び交っている。中でも小早川秀秋の裏切りはもはや確定とされ、それとは別に吉川広家の内通も口にされていた。
恵瓊は策をめぐらしはしても、相手をだます謀略は嫌いである。外交僧は敵にも味方にも誠実を心がけねば、交渉の席にもつけないからだ。しかし恵瓊が仕える毛利家は、昔から平気で約束を破ってきた。大友家や尼子家と和議を結んでも、その都度破ったという家柄なのである。恵瓊も、交渉相手と毛利家との板挟みになって苦労をなめてきたが、最近では毛利家も行儀がよくなっているので、広家の裏切りはあるまいと安心していた。
ところが朝になって霧が晴れ、戦闘がはじまっても広家は動かない。正午前に三成から合図の狼煙があがっても動きがない。恵瓊も自分の軍勢をひきいていたので、人をやって麓に陣する広家に出陣を催促したが、追い返されただけだった。麓の広家が動かなくては、山頂の本軍も動けない。
「はかられたか!」
やっと気づいた。広家が家康方に通じているといううわさは本当だったのだ!
そのうちに松尾山の小早川秀秋が裏切り、大谷吉継の陣に襲いかかったとの報告が入った。ああ、やったかと天を仰いでいると、三成の陣が壊滅したとの報告がつづいた。
主力が崩れたのでは負けである。やむを得ず陣を払い、伊勢路へ退却にかかったが、恵瓊は軍勢を離れ、単身引き返して毛利本軍を追った。どうして本軍が動かなかったのか、理由を質さずにはいられない心境だった。
「広家はともかく、なぜ本軍が動かなかったのじゃ。誰が決めたのじゃ」
福原広俊を捕まえて迫った。すると広俊は、
「殿よ。殿がそう決めたのよ」
徳川方とのあいだで毛利の所領を安堵する密約が成っている、と告げるではないか。
「なんじゃと!」
恵瓊は思わず声をあげた。総大将みずからが敵に内通し、裏切るとは。策略が得意な恵瓊でも、そんな案は思いもつかなかった。
輝元の白い顔が目に浮かぶ。経験の浅い輝元は、最後で折れたのだろう。老体に鞭打って戦場に出てきた家康と、大坂城から動かなかった輝元とでは、この合戦にかける覚悟が違ったのだ。そんなことを考えていると、
「そうそう。毛利家が三成に加担したのは、長老ひとりの才覚ということになっておる。覚悟しておいてくれ」
と、広俊がとんでもないことを言い出す。
「それは違う。殿の御下知でしたことじゃ!」
憤激して抗議したが、広俊は冷酷だった。
「忠臣の長老には、お家を生かすために罪をかぶってもらおうってことだな」
「なんと……」
忠誠を尽くした挙げ句に罪を着せられるとは。あまりの仕打ちに恵瓊はものも言えなかった。呆然とその場に立ち尽くし、退却する軍勢を眺めていたが、やがて腹を据えた。
──不誠実なことをすれば、いずれ報いがある。毛利家もただでは済むまい。
そう思って毛利勢と離れ、京にある自分の庵へ向かった。いずれこの身は捕縛されて罪を問われるだろうが、命は惜しくない。自分だけは最後まで誠実でいようと思っていた。
※本稿は歴史街道2018年10月号特集1「軍師たちの関ケ原」掲載記事より抜粋・編集したものです。
更新:12月04日 00:05