七将騒動は家康の裁定により、三成が奉行職を退いて居城の佐和山に隠退することでおさまった。家康は、うるさい三成をだまらせることに成功したのだ。
これに味をしめたか、家康は次々に手を打つ。10月には家康暗殺の企てが露見したとして奉行の浅野長政を追放し、12月には前田家に異心ありとして討伐の命を下し、利家の跡を継いだばかりの若い利長を屈服させた。
年が明けると今度は上杉家に難癖をつけ、上洛して釈明しなければ討伐すると通告した。すると上杉家は、来るなら来いとばかりに上洛を拒否する返書を送った。世にいう直江状である。これを読んだ家康は激怒して上杉家討伐を天下に号し、6月にはみずからも大坂を出て江戸へと下っていった。
翌7月、恵瓊は佐和山城にいた。御殿の質素な奥座敷でふたりの男と対面している。
「内府がようやく隙を見せた。この時をはずしてはもはや誰も止められまい」
というのは、城主の三成である。
「いや隙などと思わぬほうがよい。内府は手強い相手じゃ。うかつに手を出してはならぬ」
三成の盟友、大谷吉継が首をふる。
三成は、上杉討伐軍に加わるために東下する途上の吉継を呼びよせ、家康討伐の策を打ち明けたのである。家康が上方を離れたいまこそ、大坂城の秀頼を擁して討伐の兵をあげる絶好の機会だというのだ。だが吉継は慎重で、説得に応じようとしない。
「いまなら大坂城を押さえられる。秀頼さまを擁して家康の数々の非を世に訴えれば、心ある大名衆はみななびくに違いない。さすれば家康の力も恐るるに足りぬ。毛利どのも」
と三成は恵瓊をふり返って言った。
「すでに同心されておる」
不審そうな顔をする吉継に対して恵瓊はうなずき、言った。
「家康の横暴は目にあまり申す。われら、豊家にいささかご恩がありせば、お力添えするにやぶさかではござらん」
これは恵瓊の独断ではない。輝元の狙いは家康を倒し、三成が支える豊臣家の下で西国を毛利が、東国を上杉が統治する世の実現である。だから恵瓊は輝元の命をうけ、隠居した三成と連絡をとり合い、家康打倒の一手を探していた。そこに絶好機が訪れたのである。
「わが毛利家が総力をあげて、治部少どのを支えましょうぞ」
と断言する恵瓊に、ならばと吉継も賛同し、家康打倒の挙兵が一気に現実となった。
すぐに急報が広島に飛び、満を持していた輝元が兵をひきいて大坂にのぼってきた。大坂城西の丸に入り、反家康軍の総大将となる。同時に三成ら奉行衆の連名で、「内府ちがひの条々」なる家康弾劾状を発した。堂々と世に家康打倒を宣したのだ。
一方で、恵瓊は吉川広家を説得しなければならなかった。挙兵に反対だというのだ。
広家は若いころから素行が悪くて家中の問題児だったが、三男坊だったので大目に見られていた。ところが長兄が若死し、次兄は病弱だったので、いまや毛利宗家につぐ兵力をもつ吉川家の当主である。家中統制上、ほうってはおけない。
「内府どのに従うはずが、逆に内府を討つとはどういうことだ!」
大坂で会った広家は、はじめから喧嘩腰だった。この性格ゆえに家中では浮いた存在で、輝元とも恵瓊とも反りが合わないのだ。
「豊家のご恩に報いるため、殿も承知じゃ」
「治部少めにそそのかされたのだろう。きゃつの言うことを聞くとお家が滅びるぞ!」
「家康をのさばらせておいては、お家のためにならぬのがわからぬか!」
悪罵の投げつけ合いになったが、ともかく輝元の命令として押さえつけた。
──軍略に私怨をもちこみおって。
恵瓊には広家の腹の内がわかっている。広家は三成を襲った七将と仲がよく、三成が嫌いだ。だから反対しているだけなのだ。
「ま、人の世とはそうしたものよ」
とつぶやき、恵瓊も出兵の支度にかかった。
更新:12月04日 00:05