「目に見えぬ 神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり」
権力者には常に厳しい倫理を持って相対し、国民には自愛に満ちた御心で臨まれた明治天皇。それは日々祈りを捧げられ、御製を通じて御心を磨かれ、すべての問題を我が事として考え悩まれたがゆえに、到達し得たご境地であった。
「私」をなくし、全身これ「公」であろうとされた明治天皇のまことの御心こそ、日本史上に輝く「明治の精神」の核心なのである。
※本稿は、『歴史街道』2012年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御されてから、今年で100年になります。
最近では、明治天皇がいかに生き、いかに時代を作ってこられたかを、あまり知らない人も増えてきてしまいました。これは日本という国にとって大きな問題です。
今日の日本を築いたあの時代の中心におられた明治天皇が、どのようなことをお考えになり、どのようなことをなさったのかがわからなければ、明治という時代に最大限に発揮された日本人の美質と、日本文明の本質を十分に理解することができないからです。
今から100年前、明治時代を生きた多くの人々は、明治天皇の威厳と共に慈愛に満ちた雰囲気と、まるで古武士のような剛毅さに、憧れを寄せていました。
平たく言えば、明治天皇の中に「最高の男ぶり」を見て取っていたのです。ある意味では、天皇と国民との距離が、その後のどの時代よりも近かった、といえるでしょう。
天皇の、この慈愛と剛毅さの両面は、御肖像や10万首にものぼる御製(天皇が詠まれた和歌)、そしてより公式的な詔勅の文章の中にさえ表われています。それらの積み重ねが明治という時代のイメージを大きく規定しているともいえます。
明治天皇は、いかにしてこのような天皇となられたのでしょうか。
まず、明治天皇に大きな影響を与えられたのが、父帝 〈ちちみかど〉 ・孝明天皇です。特に重要なのは、孝明天皇が、「日本のかたち」を極めて重視されていたことでしょう。
長い歴史の中で日本人が作り上げてきた「日本のかたち」は、「万世一系の天皇が、『精神的な規範』となり『権力の源泉』ともなるかたちで統治する国」というものでした。
現実の政治権力のあり方は、時に摂関政治、時に幕府政治というように時代によって様々ですが、どの時代の摂政も関白も将軍も、任命しているのは天皇です。
そして天皇は同時に、国と民のために祈り、日本の精神的規範を体現する存在でもあります。つまり日本においては、権力と祭祀と道徳が「天皇」という1つの軸で貫き通されてきたのです。
ですから、時の権力が「公」の心を忘れて、政治をあまりに「私」し、嘘や裏切り、腐敗の横行などを招くと、それはすぐに「日本の精神的規範」を正面から傷つけることに直結してしまいます。幕末の状況を見て、孝明天皇が心配されたのもまさにそのことでした。
嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結された後、総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の締結を求めます。幕府は当初、条約締結の勅許を求めますが、孝明天皇がそれを拒まれると、幕府は勅許なしに条約を締結。その後は居直って京都の公家たちを買収しにかかりました。
このような嘘や不正義を放置したら、やがてそれが社会全体にも広がり、国民の道徳心が地に堕ちてしまう――そのことを孝明天皇は強く懸念されたのです。
政〈まつりごと〉を司る者の腐敗や不正義を、許すことがあってはならない。その毅然たる御心を、明治天皇はたしかに受け継がれました。
更新:12月12日 00:05