この時期から、学問への姿勢も大きく変わります。乗馬を楽しまれる、いわば「少年君主」としてのありようから、一挙に成熟し、精神的にも本格的な統治者のお姿に変わっていきます。
そのお姿の一端が垣間見えるのは、西南戦争の2年後の明治12年(1879)に「教学聖旨 」を出されたことでしょう。
明治天皇は前年8月に北陸に巡幸されていますが、その折の視察で、流暢に英語を発音できても日本語に訳せず、国や世界の動きを滔々と論じても家業の農業の知識がまったくないような学生に接せられ、それまでの西洋化一辺倒の近代化路線に大きな疑問を抱かれます。
そこで明治天皇は元田永孚 〈ながざね〉 に命じて教育方針への疑問と要望を記した「教学聖旨」を作成され、政府の中枢を担っていた伊藤博文に下付されたのです。
「一時、西洋の優れたところを取り、進歩の効をあげたが、その弊害で仁義忠孝を後にし、徒 〈いたずら〉 に洋化を競うばかりでは将来が不安である。ついには君臣父子の大義も知らない状況に立ち至るのではないか。それはわが国の教学の本意ではない」(抜粋現代語訳)
明確に、伊藤たちの欧化主義の行き過ぎと、道徳の荒廃に警鐘を鳴らす内容です。この問題意識が、そのまま明治23年(1890)の「教育勅語」に結実しました。
改革が日本の本来のあり方を壊してしまいそうな時には、明治天皇は常にご不満を示され、バランスを取られたのです。
維新当初、西欧的な近代化はたしかに必要だったでしょう。しかし、もしこの時、天皇の「大いなるバランス」の精神が発揮されなかったなら、その後の日本は精神的、文明的にも間違いなく「植民地」化されており、今日の日本もあり得なかったでしょう。
伊藤博文も、当初はしゃにむに西洋化を進める傾向がありましたが、これ以後、徐々に明治天皇に感化されて姿勢を変えていき、後年には天皇から厚く信頼されるようになります。
さらに、明治天皇が君主として完全に成熟されたことが明確にわかるのが、「明治14年(1881)の政変」へのご対応です。
当時、自由民権運動が盛り上がり、国会開設をどうするかが大きな問題となっていました。岩倉具視は政府指導者たちに意見書を求めますが、ここで大隈重信が薩長閥への巻き返し、という政局的発想から、抜け駆け的に「2年後の国会開設」という、およそ実現不可能と思われるような急進的な案を提出したのです。
以前から大隈は、人を惹き付けるためのパフォーマンスが過剰すぎるきらいがありました。しかし「今すぐ国会を開設せよ」と世論が沸騰しているときに大向こう受けを狙った大隈のこのスタンドプレーは、国家を大きく過たせかねません。
ここで政府内では「大隈追放」を巡って大きな対立が巻き起こることになります。
しかもこの時、北海道開拓使長官の黒田清隆が五代友厚に官有物を格安で払い下げ、いわゆるバックマージンを取ろうとしていたことを新聞各紙がさかんに暴き立てました。
世論はさらに沸騰し、大隈派がこれに乗じて黒田の罷免を画策します。対する黒田も自分の汚職を棚に上げ、もっぱら政局と権力闘争の視点から「大隈が辞めるなら自分も辞める」と反論するなど、政治はさらに混迷の度を増してゆきました。
そしてついに岩倉と伊藤らが動き、明治天皇に大隈の罷免を願い出ます。
しかしこれに天皇は、簡単に応じようとはされませんでした。「お前たちは自分の派閥を有利にするため、徒党を組んで大隈を追い出そうとしているのではないか」と繰り返し問い質されたのです。
実は明治天皇は、過度に革新的でパフォーマンス先行型の大隈に、以前からさほど信頼を置いておられませんでした。普通の専制君主ならば、自分の信頼あたわぬ人物を遠ざけたいとの思いに駆られ、上奏されれば一も二もなく賛同するでしょう。
しかし「公 〈おおやけ〉 の政 〈まつりごと〉 」、つまり政治における公平公正をあくまで重んじておられた明治天皇は、伊藤らの願い出を突き返して大隈を守ろうとされたのです。
すべてのものを分け隔てなく受け容れる「大御心」を大切にされていた明治天皇は、若い頃から晩年まで、あえて側近の進言には厳格な態度で接せられ、政務においていわゆる「依怙贔屓」を一切されませんでした。
むしろ能力重視で、この仕事をやり遂げるのはこの人間しかいないという場合には、その者の心情を見定めたうえ、信頼を置き、元気づけ、自分が受け容れることによって相手を感化することを心がけておられました。
結果的には、大臣や参議たちが何度も大隈の罷免を議決して上奏するので、ついに裁可されますが、この間の執拗ともいえるやり取りの中に、明治天皇の立憲君主としての高い天性が拝察されます。
また、こうして天皇は政治家や側近たちの果てしない自己研鑽を促し、結果的に明治のあの優れたリーダーたちを育て上げられたのです。
さらに天皇は、一方の黒田に対しては、大隈問題と自分の汚職疑惑を取り引きしようとしたことに「筋が違う」と激怒されました。明治天皇は、ことのほか汚職を忌み嫌われました。あの傲岸不遜の黒田も恐懼 〈きょうく〉 し、まったく不面目な辞職に至ります。
これは一見、喧嘩両成敗のように見えますが、そんな単純なものではありませんでした。というのも、そのうえで世論に対しては、「10年後に国会を開設する」という「国会開設の詔 〈みことのり〉 」を出しておられるからで、これによって、自由民権運動は落ち着きを見せるのです。
これらはすべて実に卓抜なご決断でした。西郷を失った明治6年の政変で苦しまれた明治天皇は、君主として深く成熟され、「公」のための議論は生かし、「私」の邪心に発する議論は廃し、国家の行く末を照らして正しく導く見識と指導力をすでに身に付けておられたのです。
この逸話には余話があります。元田永孚は国会開設には反対で、明治天皇にもそれを進言します。しかし、いかに信頼を置く側近中の側近の元田とはいえ、明治天皇はその意見には決して耳を傾けられませんでした。
そこには天皇が一貫して保持し続けられた、側近の意見に軽々に左右されないお姿がありました。
明治天皇にとって国会開設は、明治初年に天神地祇 〈てんじんちぎ〉 、つまり天照大神はじめ諸神に誓った五箇条の御誓文の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の延長線上にあるものでした。
元田はじめ臣下が何を言おうと、自らの誓いや神々との約束を覆すことは、日本の天皇としてあり得ぬご選択だったのです。
その後、日本が憲法制定や国会開設などの大事業、さらには日清、日露の大戦争という難局を乗り越えることができたのも、政治家や軍人など日本のリーダーたちを絶えず牽制し、畏怖させると共に発奮させることに心を砕かれた天皇の大いなる存在なしには考えられません。
今日の歴史家はこの点にもっと眼を向けるべきでしょう。こうした明治の大事業や国家的な危機の克服を、単に「明治の奇跡」として片付けることはできないからです。
「坂の上の雲」を目指した当時の日本人の心の中心に、こうした明治天皇のお姿への深い信頼と、そうした天皇を戴いている日本という国への強い誇りが脈々としてあったからこそ、あの「奇跡」が現実になり得たのです。このことは、明治を語るとき、もっと明瞭に語られなければならないのです。
更新:11月24日 00:05