明治天皇は、たったお一人で明治という時代を精神的に導かれました。なぜ、それが可能だったのか。それを知るためには日本文明の神髄、つまり「日本人の精神的規範とは何か」を考えてみるべきでしょう。
われわれはよく、「美しい心」とか「汚いやり方」というように、美しいか美しくないかで道徳を論じます。
倫理的な「正しい、正しくない」よりも、きれい、汚いという「美的感覚」のほうがピンと来る日本人の鋭い規範意識。これこそ日本文明に特有のものなのです。
日本人が古来、和歌を尊んできたのは、心の奥深い動きや自然の美しさの本質を31文字の中に凝縮することによって、単に心の感動を写すのではなく、善悪・美醜を一瞬で判断する美的感覚の鋭さを培うためとも考えられます。歴代天皇も、祈りを捧げ、和歌を詠むことによって、日本の「精神的規範」を体現してこられたのです。
明治天皇がご生涯で10万首ともいわれる御製をお作りになったのは、まさに、このような皇室の伝統を重視されているからこそなのです。この文明観を持たない限り、日本の歴史、とりわけ明治は理解できないでしょうし、天皇というご存在がなぜ 2000年も続いてきたのかもわからないでしょう。
明治天皇は、明治41年(1908)に次の御製を詠んでおられます。
ともすれば うきたちやすき 世の人の こころのちりを いかでしづめむ
おもふこと あるたびごとに つくづくと あふぐは天つ みそらなりけり
この年は、日露戦争の勝利(明治38年)から3年。戦争に勝利した安堵と、ついに世界の大国と肩を並べたことへの驕慢と頽廃が、日本人の心と社会に満ち始めていました。
明治天皇はこれを憂慮され、この年(明治41年)、「戊申詔書 」を発布されました。
「現今、人類は日進月歩、東西相寄り文明の福利を共有している。私はさらに外国との友好を深め、列国と共にその恩恵に浴したいと願う。しかし、文明の恩恵を共有するためには、自国を自らの力で発展させねばならない。
日露戦争後、まだ日も浅く、政治全般をますます引き締め直さねばならない。上下心を一にし、忠実に業につき、勤倹を旨とし、信義や人情を重んじ、華美を退けて質実を重んじ、荒んだ暮らしや怠惰を互いに戒め、たゆまず努力を続けるべきである」(抜粋現代語訳)
「日露戦争後の、このあり様はなんだ」という天皇の叱咤のお声が聞こえるようです。明治天皇は、あの勝利の後にも、しっかりと世相の「美醜」を見極められ、この国の行く末に思いを馳せておられたのです。
この詔書と共に、先に挙げた同年の御製からは、驕慢と腐敗に流れ始めた当時の「精神のバブル」ともいえる日本の状況を目にした明治天皇の憂いが真っ直ぐに伝わってきます。
しかし、その憂いは、けっして他に責任を転嫁されるものではありません。明治天皇はこれらをご自身の問題として受け止め、真摯にわが身に引き寄せて考えておられたのです。
目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり
この御製の御心こそ、明治天皇の国家指導の原点といえるでしょう。
人間性を奥深くまで見つめられ、権力者に対しては常に厳しい倫理をもって臨まれ、国民に対しては、あたかも大空が万物を包み込むような慈愛に満ちた大御心で臨まれた明治天皇。
その偉大さは、明治天皇の人間としての大きさと深さに直結しています。天皇が、他の誰よりも西郷隆盛と乃木希典を終生、信頼と愛惜の念を持って心に懸け、思い続けられたことは、このことを明瞭に証しています。
しかもそれは、日々祈りを捧げ、御製を通じて自らの御心を磨かれ、天皇としてすべての問題を自らに引きつけて様々な機会に考え悩むことをひたすらに重ねてこられたからこその境地だったのです。
まるで一首一首の積み重ねが、ついには10万首にものぼる御製として結実したように、一歩一歩の積み重ねによって、この遥かな高みにまで到達されたのです。
これは誰にでも「できうる」ことですが、実際には、誰にも「なしえない」ことと言わざるを得ません。
しかし、どこまでも「私」をなくし全身これ「公」であるべく生きようとされた明治天皇は、そのような生き方を最後まで貫かれました。そして、それゆえにこそ、「真面目で勤勉で表裏なく、いつも明るくお互いの絆を大切にする『日本人の心』を失わなければ、この国は必ず立ちゆける」という確信をお持ちになることができたのではないでしょうか。
明治41年に、明治天皇は次のような御製も詠んでおられます。
われもまた さらにみがかむ 曇なき 人の心を かがみにはして
明治天皇は、まさに社会を映し、時代を照らす「鏡」のようなご存在でした。しかも、どこまでも磨き上げられた鏡でした。
明治天皇が体現された、あくまで「公」を重んじ、「無私のまこと」を遥かな高みにまで追い求める精神こそ、まさに日本史上に燦然と輝く「明治の精神」の核心だったのです。
更新:11月24日 00:05