天正17年6月5日(1589年7月17日)、摺上原の戦いが行なわれました。伊達政宗が蘆名義広を破り、南奥州の覇者となったことで知られます。
関白豊臣秀吉が近々、大軍を催して東国に攻め入ることが確実視される中、先に「奥州王」の立場を確保したい米沢の伊達政宗にとって、最大の障害は会津黒川城の蘆名義広でした。しかし義広は、北関東に勢力を持つ鬼義重こと佐竹義重の次男であり、難敵です。
天正17年4月、相馬義胤と岩城常隆が、伊達の同盟勢力の田村領に侵攻、これが戦いの発端となります。政宗は田村氏救援のために米沢城を発すると南下、田村領に援軍を送るとともに、猪苗代方面の諸城を攻略して、会津盆地への進撃路を確保します。そこには蘆名義広を仙道筋(現、福島県中通り)におびき出す意図が隠されていました。政宗の読みは図にあたり、5月27日、蘆名義広と実父の佐竹義重は須賀川に出陣し、北方へ進む構えを見せます。
政宗の真の狙いは、内応する手筈の猪苗代盛国を使って、義広が留守にしている黒川城を攻略することにありました。そして6月1日に猪苗代盛国から内応の確約が届くと、伊達の諸将は次々に猪苗代城に集結します。一方、この動きを察知した義広と佐竹義重は驚愕し、あわてて佐竹は白河小峰城に、義広は猪苗代湖南方を経由して黒川城に戻りました。
そして翌5早朝。蘆名義広は1万6000の兵で黒川城を出陣、猪苗代城の伊達勢に挑みます。一方、政宗率いる2万3000も出撃、蘆名勢が迎撃態勢を整えて布陣する、磐梯山麓の摺上原に向かいました。
戦端が開かれたのは、午前8時頃。緒戦は強風の追い風を受ける蘆名勢が優勢でした。第一陣の片倉小十郎の足並みが乱れると、政宗は敵の側面に鉄砲を斉射させ、伊達成実、白石宗実らの隊を突入させて、頽勢を挽回させようとします。一進一退の攻防が続く中、突如、風向きが変わって蘆名勢が向かい風を受けます。これを好機と見た片倉小十郎は、押し返すよう命じるとともに、戦場近くの丘陵で見物している農民や町人に向けて、鉄砲を放ちました。見物人たちは仰天して、我先に西へと逃げ始めます。
ところが蘆名勢はその姿を味方の敗走と勘違いし、たちまち崩れ立ちました。こうなると義広が命じても収拾はつかず、軍は潰走、しかも退路の日橋川に架かる橋が破壊されていたため、夥しい溺死者を出してしまいます。蘆名義広は僅かな供廻りに守られて、なんとか黒川城に帰還したものの、とても伊達軍を支えきれないと城を捨て、実父の佐竹義重を頼って常陸へと落ち延びました。 こうして政宗は6月11日、黒川入城を果たし、ここを新たな居城と定めます。さらに仙道方面に残る敵を掃討し、翌年早々には奥会津の敵も平らげて、その勢力は奥羽合わせて30余郡に及ぶに至りました。しかし、南奥州の覇者となった政宗の前に、豊臣秀吉の東征軍が立ちはだかることになります。
更新:12月10日 00:05