政宗が大悲願寺に立ち寄ったのは、秀雄に会うためであったと、地元では昔から言われていた。秀雄は当時、住職・海誉上人の弟子になっていたからである。
寺には、政宗から贈られた茶壺もあるという。つまり記録には残っていないが、大悲願寺には何度か行っている可能性がある。
すると、なおさら秀雄、つまり小次郎と会うことが目的だったと思えてくる。
事件当時、政宗は24歳、小次郎は10〜12歳と推定される。
しかし事件の翌年、政宗の初めての実子・秀宗が生まれる。
後継者ができた時点で、小次郎が復活する必要はなくなった。逆に、生きていることが知られてはまずい。
政宗は、小次郎が一番気の毒だと、負い目を感じていたのではないか。だから、会いに行った。本当に気の毒なことをしたと、謝る以外の気持ちはなかっただろう。
政宗が大悲願寺で白萩を眺めた2カ月後の元和8年10月、最上家の改易により、義姫は山形から仙台の政宗のもとに戻って、その約9カ月後に亡くなった。
大悲願寺で小次郎と会っていたとすれば、政宗はその様子を義姫に伝えていたかもしれない。
あるいは、最上家改易の噂は以前からあり、大悲願寺で、政宗と小次郎が、義姫の処遇について話し合ったかもしれない。
その時、親子3人に去来した想いとは、いかなるものだったのか。
いずれにしても、秀雄が小次郎とは断定できないが、私はその可能性は高いと考えている。そして小田原参陣とは、伊達家にとってかように大きな犠牲を払うほどの、重大な局面だったのである。
紙幅の関係で説明を省略した部分も多いが、この論に興味を持たれた方は、拙著『素顔の伊達政宗』(洋泉社)、拙論「伊達政宗と母義姫─毒殺未遂事件と弟殺害について─」(『市史せんだい』Vol.27 仙台市博物館 2017年9月発行)を参照していただきたい。
※本記事は、歴史街道2018年11月号に掲載したものです。
更新:11月23日 00:05