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小田原参陣前、伊達政宗は弟・小次郎を殺してはいなかった!?

2019年06月24日 公開
2022年08月01日 更新

佐藤憲一(伊達政宗研究家・元仙台市博物館館長)

「政宗の弟」とされる住職

東京都あきる野市に、大悲願寺という寺があり、注目すべき記録が残されている。

寺の15代目住職の秀雄が、政宗の弟だというのである。

大悲願寺には、元和8年(1622)8月21日、当時の住職である13代目・海誉上人にあてた、政宗の手紙が伝わっている。

内容は、大悲願寺を訪れた政宗が庭に咲いた白萩の美しさに心奪われ、江戸に帰ってから株分けを所望したものである。

この手紙の包み紙の内側には、「実は大悲願寺の15代目住職の秀雄は、伊達輝宗の末子で、伊達政宗の弟である」と記されている。

これを書いたのは、江戸時代中期の住職・如環とされ、彼は大悲願寺の過去帳(『福生市史資料編 中世寺社』に全文翻刻されている)も整理している。そしてその過去帳に、如環が秀雄を政宗の弟と記した根拠があった。

秀雄が15代目住職を務めていた寛永13年(1636)5月24日の条に、政宗が没した時に秀雄がその回向(供養)を行なったことを示す、次の記述がある。

「奥州住、伊達陸奥守権中納言従三位・藤原政宗、左京大夫・輝宗之嫡子、沙門秀雄兄、寛永十三丙子五月廿四日薨、七十歳也」

亡くなった時の政宗の官位、藤原という伊達氏の本姓、左京大夫・輝宗の嫡子という記述は正確であり、そして「沙門秀雄兄」、すなわち「私の兄」で、だから供養したというのだ。

過去帳は言うまでもなく住職が書くものであり、つまり秀雄自身が「政宗は自分の兄」と記したことになる。

また過去帳には、秀雄が没した寛永19年(1642)7月26日の条に、「秀雄は輝宗の二男で、政宗の弟」とある。

政宗の弟は小次郎ただ一人である。それ以外の弟は、系図上一切出てこない。

すると、御落胤という可能性もないとは言い切れないが、秀雄=小次郎という可能性が出てくる。

実は他にも、小次郎生存の可能性を示す記録がある。

『治家記録』を編纂する際、史料として使われたのが、当時の伊達家の日記『伊達天正日記』だ。

原本を見ると、政宗が小次郎を手討ちにしたとされる天正18年4月7日の部分が、何行分か切りとられていて、残された部分には、政宗が小次郎の傅役だった小原縫殿助を、自分の屋敷に呼んで手討ちにしたとある。つまり、小次郎を殺害したという記述はどこにも出てこないのだ。

他にも、小原縫殿助は実は生きていて、小次郎を埋葬したという言い伝えもある。

小次郎と小原縫殿助の墓は、宮城県登米市津山町横山にある。

この墓を管理している曹洞宗の長谷寺の記録と『津山町史』によると、はじめ小原は小次郎の遺骸を福島のある寺に埋葬した。

そして、旧葛西・大崎領が政宗に与えられると、小原は小次郎の遺骸をこの地に改葬し、その後、追い腹を切って死んだとある。墓のある横山は義姫が政宗から与えられた化粧領で、改葬は義姫の内命によるものだという。

2人とも政宗によって手討ちにされたという『治家記録』と矛盾する。
 

母子で仕組んだ狂言だった!?

結論から言えば、毒殺未遂事件と小次郎殺害は、政宗と義姫との間で共謀された狂言ではなかったか。そして、小次郎は殺されておらず、大悲願寺の秀雄となったのではないか。

というのも、小田原参陣の時、政宗に実子はいなかった。すると政宗に万一のことがあれば、伊達家の血統を継ぐ者は小次郎だけである。それを殺すとは考えにくい。

だが、小次郎を当主に推す勢力もあったのだろう。小田原参陣前に、政宗は伊達家の一本化を図るため、弟を排除する必要があった。

そこで、義姫と話し合い、小次郎と小原を殺したことにして、小次郎の身を小原に託し、寺に逃したのではないか。2人の墓が横山にあるのも、アリバイ作りの一環だろう。

政宗と義姫との関係は、おそらく幼い頃からぎくしゃくしていたが、かなりの部分は、政宗の思い込みだったのではないか。

政宗は後年、疱瘡にかかった際に義姫が見舞いに来なかったと語っている。そうした体験から、義姫は弟だけをかわいがり、自分を疎んじている、自分はいずれ亡き者にされて弟が跡を継ぐ、義姫の背後には敵対する最上義光がいる……そんな不安が徐々に育まれたのではないか。

政宗が小田原の秀吉に会いに行くとき、一番心配だったのは、自分の留守中に小次郎を擁立した内乱が起きかねないことだった。

政宗は、それまで胸の内に抑えていた不信感を率直に義姫に伝え、それを聞いた義姫も政宗の想いを汲み取り、そこで考えられたのが、この狂言ではなかったか。

2人で申し合わせていたのなら義姫が最上に逃げ帰ることはなかったのでは、という見方もあるが、4年後ということに意味がある。

政宗が家臣の鬼庭綱元に、事件の直後に与えたと思われる手紙がある。

そこには、義姫が政宗を毒殺しようとしたが、背後には義姫の兄・義光がいるという噂があり、その通りだと思う。このままでは小次郎を守り立てる側との間で内乱になりかねない。毒を盛ったのは母だが、殺すわけにはいかないので、かわいそうだけれど弟を殺すことにした、とある。

そして最後に、信頼しているお前にだけはこの事実を話しておくので、お前が斟酌して、いいと思うことは世間へ口説き広めてほしいと書いてある。

この指示から、政宗は義姫に毒殺されそうになったので弟を殺したのではないかという噂が、徐々に浸透していった可能性がある。

やがて義姫は、周囲の自分に対する目が厳しくなってきたことに耐えられなくなって、実家に帰った。あるいは、実家に帰ることで、自分が政宗を毒殺しようとしたことが真実だったと思わせようとしたのかもしれない。

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