2019年05月24日 公開
2022年12月28日 更新
「常に隻眼を恥じ、ややもすれば目を隠そうとする」
伊達家の公式記録に書かれた、幼き頃の政宗の様子である。
人に恥じらいを見せる政宗に対し、近臣たちはその将器を危ぶんだという。
しかし、政宗は伊達家にとって希望の星であった。それは、伊達家の記録に残された生誕伝説からも窺える。
政宗の母・義姫は、文武の才と忠孝の誉れある男子の誕生を願い、米沢にほど近い亀岡文殊堂の傍らに住む行者・長海上人に頼んで、出羽三山のひとつである湯殿山に祈願をしてもらった。
湯殿山に登って祈願した長海上人は、湯殿の湯に浸した幣束を持ち帰り、それを義姫の寝所の屋根に安置させた。
するとある夜、義姫の夢枕に白髪の僧が立ち、「胎内に宿を借りたい」と頼んでくる。義姫は夫・輝宗と相談すると答え、翌日に話を聞いた輝宗は「瑞夢だ」と喜び、これを許すように伝えた。
その夜、再び現われた僧に義姫が輝宗の意向を伝えると、僧は幣束を義姫に授け、「胎育したまえ」といって姿を消す。
そして永禄10年(1567)、義姫は政宗を生んだ。修験道では幣束を「梵天」とよぶことから、幼名は梵天丸とつけられた。
輝宗は、瑞夢によって誕生した政宗に、大いに期待したに違いない。
当時、伊達家では内部対立が続いていた。輝宗の祖父・稙宗と父・晴宗が激しく争い、輝宗自身も、晴宗と不仲であった。こうした家を立て直すためにも、輝宗は政宗に英才教育を施していく。
まず学問の師としては、「天下の二甘露門」と称された名僧・虎哉宗乙を、一度は断られながらも、再度頼んで招聘している。政宗は虎哉から、仏教や漢学を学ぶ。
また傅役には、政宗より10歳年上の片倉景綱をつけた。将器を危ぶむ他の近臣と異なり、景綱は政宗の非凡さを見抜いていたという。
政宗は5歳の頃、景綱とともに、ある寺院で不動明王像を見て「仏なのに、なぜ恐ろしい容貌をしているのか」と問うた。寺僧の説明を受けると、「不動明王とは、大名の手本になる仏だ。外には強く、内にはやさしくということか」と感想を述べたという。景綱は、その利発さに目を見張ったことだろう。
政宗と景綱にはこんな逸話もある。疱瘡により右眼を失明した政宗は、そのうちに右眼が飛び出しはじめた。
それを醜いと思った政宗は、驚くべきことに、近臣に眼を潰せと自ら命じる。当然、家臣たちは恐れおののいて、従わない。
そこに進み出たのが、景綱だった。景綱は政宗の右眼を切り取るだけでなく、切られて卒倒した政宗を、「いやしくも、武将たる者がこれくらいで卒倒するとは」と大喝したという。
自分の迷いを振り払うように、眼を切り取らせた政宗と、切り取るだけでなく、将の心構えを説いた景綱……。
政宗は、輝宗が師としてつけた者たちの教えのもと、心逞しく育っていくのである。
参考文献‥小和田哲男著『史伝 伊達政宗』、小林清治著『伊達政宗』
更新:11月21日 00:05