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なぜ「織田信長の二男と三男」は後継者になれなかったのか?…信雄と信孝の争いと“その後”

2021年02月15日 公開
2022年07月28日 更新

谷口克広(戦国史研究家)

 

家臣らはなぜ信孝に背いたのか

信雄を担いだ秀吉には、丹羽長秀・池田恒興・堀秀政、その他、畿内と西国の大名たちが味方になった。それに対して、信孝・勝家方には、滝川一益が同調しただけであった。

12月、秀吉は勝家方の北近江長浜城を攻めて陥落させた。さらに秀吉は、岐阜城に信孝をも攻撃した。この時、なんと美濃の織田家臣たちのほとんどが、信孝を離れて秀吉方に付いてしまったのである。

清須会議以後、新たに信孝の家臣になった美濃衆が信孝を離れたのはわかる。しかし、ずっと信孝の近臣だった者まで背いている。

これはどうしたことだろうか。信孝は、「智勇、人に越えたり」などと、褒められることの多かった若者であった。しかし、意外と性格に欠点があったのではなかろうか。

『勢州軍記』に「それ信孝は勇義を自慢し、短慮により柔和を知らず」との評があるが、案外と的を射ているのではなかろうか。自信過剰の才人は、とかく孤立しがちである。結局信孝は、秀吉に降伏するしかなかった。

勝家が出陣したのは、翌年の3月である。信孝はそれに同調して再び挙兵した。

4月に賤ケ岳の戦いがあって、頼みの勝家は最期を遂げた。信孝は捕らえられ、岐阜から尾張内海に送られた。そして5月2日、大御堂寺において信孝は、信雄の命により切腹に追い込まれた。26歳であった。

 

家督としての役割を果たすものの…

羽柴秀吉に擁された信雄は、こうしてライバルの信孝を葬った。

信孝との勝負が決する前から信雄は、安土山下町に定書を下したり、諸将の礼を受けたり、織田家の家督としての役割を果たしている。

賤ケ岳の戦いの後の天正11年(1583)6月17日に発せられた、越後の新発田重家宛ての佐々成政書状には、信雄について次のように説明されている。

「上様(信長)御時と相替らず、天下御存知なされ候」

しかし、「天下人」と言われながらも信雄は尾張清須城に居り、天下人の居城安土城の城主は三法師である。しかも成政は、先の文言に続けて、次のように書いている。

「羽柴筑前(秀吉)万端御指南申す儀に候」

つまり、すべて秀吉が取り仕切っているというのである。そういえば、賤ケ岳の戦いの後の諸将に対する知行の宛行も、秀吉の手で行われている。信雄が、尾張・伊勢の自領以外で宛行行為を行った例は見られない。

つまり信雄は、織田家家督といっても暫定的な立場、また「天下人」といっても形式的なものにすぎなかったということである。

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