信澄を討って、光秀に対する敵対の姿勢こそ見せたものの、ほとんどの兵に逃げられた信孝では、弔い合戦などできようはずがない。四国討伐軍の面々は、そのまま動かずに光秀に対する守りを固めるしかなかった。
四方に散っていた方面軍、すなわち滝川一益率いる関東方面軍、柴田勝家の北陸方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍のうち、大坂から最も近くにいるのは秀吉の軍である。
秀吉は、8日未明に姫路城に到着している。その日のうちに大坂方面から、畿内の状況が姫路に知らされた様子である。
秀吉は9日早朝に姫路を発って、尼崎を経由し、富田まで軍を進めた。13日の昼頃、信孝は淀川を渡り、富田で秀吉軍に合流した。そこで顔を合わせた信孝と秀吉は、信長父子を悼んで互いに大泣きしたという。
山崎の戦いは、その日の夕刻から始まった。戦いが終わるまで数刻も要しなかった。明智軍は大敗し、光秀は惨めな最期を遂げた。信長の遺子である信孝は、この戦いにおいて、当然反明智軍の総大将に祭り上げられたものと思われる。
しかし、『太閤記』に載せられた兵力を見ると、秀吉の軍勢は2万、信孝の軍勢は4千である。秀吉の軍が主力を成していたことは明白で、秀吉の中国大返しがあって、はじめて成し遂げられた勝利だったことは間違いない。
この後信孝は、京都を経て美濃に入り、混乱の鎮静に努めている。
6月27日、尾張清須城において、織田重臣たちの会議が催された。いわゆる「清須会議」である。
会議の議題は大きく分けて二つ、一つは織田家の新しい家督を決めること、もう一つは一連の擾乱の跡に残された欠国(主のいなくなった地域)を分配することである。
織田家家督は、7年前に信長から信忠に譲られている。したがって、その嫡男の三法師が継ぐことが筋目といえる。
だが、その三法師は、まだ数え年3歳(満2歳)の幼児である。だから、彼が成人になるまでの期間、全面的に織田家家督の権限を代行する者、すなわち「名代」が必要となる。
その地位は、単なる織田家の家督代行者ではなく、世間では「天下人」織田信長の後継者と見なされていた。その新しい「天下人」の候補者は、信長の二男信雄と三男信孝に限定されることは言を俟たない。
信雄と信孝は、「名代」=「天下人」の地位を争った。その争いは、遠く奈良興福寺に住む多聞院英俊が書き残すほどの激しいものであった。
変の直前に信孝は四国討伐軍司令官に就任し、変の後には弔い合戦を成し遂げた。その実績が彼の地位を上昇させ、信雄と肩を並べる形になったのである。
更新:11月22日 00:05