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大河ドラマ『べらぼう』蔦屋重三郎が生まれ育った町・吉原はどんな場所だったのか?

安藤優一郎(歴史家)

『吉原大通会』に描かれた蔦屋重三郎
『吉原大通会』に描かれた蔦屋重三郎(手前の左から2人目、国立国会図書館蔵)

2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公は、写楽を世に送り出した江戸時代のメディア王・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)である。いかなる人物か気になる方も多いだろうが、まずはその数奇な生い立ちと、彼が生まれ育った町・吉原について、歴史家の安藤優一郎氏の書籍『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』より解説する。重三郎の出版事業を語るうえで、吉原という地は、非常に重要な鍵を握るのである。

※本稿は、安藤優一郎著『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

蔦屋重三郎の誕生

江戸開府から約1世紀半が経過した寛延3年(1750)の年明け間もない正月7日に、蔦屋重三郎は江戸の華・吉原で生まれた。本名は柯理(からまる)、重三郎は通称であった。

時は九代将軍・徳川家重の治世にあたり、江戸幕府中興の祖ともいうべき前将軍・吉宗が、大御所として幕府に睨みを利かせていた。そんな吉宗も、翌宝暦元年(1751)には68歳の生涯を終える。名実ともに、時代は大きく変わろうとしていた。

重三郎の父・丸山重助は尾張国の出身で、母の広瀬津与は江戸生まれだった。重三郎に兄弟姉妹がいたかどうかはわからない。尾張から江戸に出てきた重助の職業もよくわからないが、吉原で何かの仕事に就いていたのだろう。

重三郎が7歳の時に両親が離別する。これを受け、喜多川氏が経営する商家の蔦屋に、重三郎は養子に入ることになった。蔦屋は吉原で茶屋を営んでいたというが、ここに「蔦屋重三郎」が誕生する。

幼い頃、両親と生き別れになったことは、重三郎にとって衝撃的な出来事だった。親の愛情に飢えていたのは想像に難くない。とりわけ、母への思慕は深く、のちに母が死去した際には、その顕彰文の作成を当代きっての文化人・大田南畝に依頼し、養家喜多川氏の墓碑に刻んだほどである。

喜多川氏の菩提寺だった浅草の正法寺には、重三郎の墓碑が今も建つ。墓碑に刻まれた文章「喜多川柯理墓碣名」を作成したのは、国学者で狂歌師の石川雅望であった。雅望は重三郎と親しく、重三郎が出版した狂歌本に編集者として参画した間柄だった。

雅望の撰文では、重三郎の人となりが次のように紹介されている。

才知が非常に優れている。度量が大きく細かいことにこだわらない。人と接する際には信義をもって臨む。

出版人としての能力については、以下のように絶賛する。

その巧みな出版構想、その優れた出版計画は他人の到底及ぶところではない。ついには事業が成功して大商人となる。

重三郎が江戸の出版界で成功した理由を、人間性とビジネス力の両面で的確に表現した証言である。

なお、幼少期に両親とは生き別れとなっていたが、27年が経過した天明3年(1783)に吉原から日本橋の通油町(現東京都中央区大伝馬町)へ転居した際、重三郎はその新居に両親を迎えている。この年は、重三郎が大きく飛躍する転機となった年でもあった。

 

社会から隔離された吉原

新吉原衣紋坂日本堤新吉原衣紋坂日本堤(国立国会図書館蔵)

重三郎が生まれ育った吉原は、江戸のなかで遊女商売を唯一公認された遊郭の町である。重三郎が出版人として飛躍を遂げるバックボーンとなった町だが、その歴史を紐解いてみよう。

江戸開府の頃、江戸の遊女屋は市中に散在していた。しかし、庄司甚右衛門たち遊女屋の陳情を受ける形で、町奉行所は一区画にまとめることを決める。

甚右衛門たちにしてみると、江戸市中の遊女屋を一区画にまとめて統制下に置けば、遊女商売を独占できるメリットがあった。

かたや町奉行所からすると、遊女屋の取り締まりが容易となることに加え、不審者の摘発に役立つメリットもあった。当時は、市中を騒がす不審者が遊女屋に逃げ込むことが少なくなく、遊女屋が散在していたことが取り締まりの枷となっていた。遊女屋をまとめて統制下に置くことは治安対策としても有効だった。

元和3年(1617)3月、甚右衛門は町奉行所に呼び出され、市中の遊女屋を集めて遊郭を建設することが許される。その用地として、日本橋の葺屋町(現東京都中央区日本橋人形町・堀留町)の東側に隣接した、約二町(約220メートル)四方の土地(現中央区人形町周辺)が与えられた。翌四年(1618)より甚右衛門たちは同所で営業を開始するが、これが吉原遊郭である。

吉原開設にあたり、吉原以外での遊女商売は禁止された。吉原は遊女商売の独占に成功するが、その代わり、不審者がいた場合は町奉行所に届け出ることが義務付けられる。治安維持への協力を求められたわけだ。

その後、江戸が泰平の世になるにつれ、人々が遊興を楽しむ機会も格段に増える。吉原もたいへん賑わうが、江戸の人口急増を受けて、開設当時は葦が茂る湿地帯だった吉原周辺も宅地造成が進む。人家が建て込みはじめたことで、遊郭の存在が人の目に触れやすくなったため、幕府としては風俗の乱れが市中に広がることを懸念した。

そこで、吉原遊郭に対して江戸郊外への移転を命じる。明暦2年(1656)のことであった。移転先としては、隅田川東岸にあたる本所と、浅草寺裏手の日本堤(現東京都台東区千束)の二案が提示された。吉原側は抵抗するが、幕府の命令に逆らうことは許されず、移転命令を呑む。移転先も日本堤と決まった。

ただし、吉原は次の二点の見返りを得る。移転先に予定された用地の規模が、これまでよりも約5割増になったこと。もう一つは、昼間だけでなく夜間の営業も許可されたことである。

日本堤への移転準備が進められるなか、江戸で大事件が起きる。翌明暦3年(1657)正月に明暦の大火と呼ばれる大火災に見舞われ、江戸城をはじめ城下町一帯が焼け野原となってしまったのだ。

明暦の大火後、幕府は江戸の防災都市化を強力に推進する。江戸城や城下町を火災から守るため、城下の建物をできるだけ郊外へ移転させた。これは市街地のさらなる拡大の呼び水となるが、吉原移転は明暦の大火以前に決まっていたため、早くも同年8月から移転先での営業が開始される。

移転前の吉原は元吉原、移転後の吉原は新吉原と呼ばれた。元吉原は江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町の五カ町で構成されたが、新吉原は用地が5割増となったことで、五町に加えて揚屋町や伏見町が新設される。ちなみに、新吉原はそのまま吉原と呼ばれることが通例となった。

吉原の規模だが、その東西は京間(1間=約1.97メートル)で180間(約355メートル)、南北は京間で135間(約266メートル)であり、その面積は2万8000坪余にも達した。周囲には忍び返しを付けた黒板塀が廻らされ、その外側には「おはぐろどぶ」と称された堀が設けられた。いずれも遊女の逃亡を防ぐための設備だが、郭への出入りが大門一カ所だけに制限されたことも、同じく遊女の逃亡を防ぐためだった。

大門の入り口には、町奉行所の同心や岡っ引きが常駐する面番所が置かれた。不審者が吉原に紛れ込むのを防ぐためである。面番所の向かい側には、四郎兵衛会所と呼ばれた小屋も置かれ、遊女の逃亡を監視するための番人が常駐した。

このように、強制移転させられた吉原は江戸の町から隔離されていた。風俗の乱れが広がるのを何とか防ぎたいという、幕府の強い意思が読み取れる。吉原の周囲には田圃が広がっていたため、その周辺一帯は吉原(浅草)田圃と称された。田圃のなかに、ぽつんと吉原が建つ格好であった。

 

吉原で一日に千両落ちた理由

新よし原尾州樓かり
新よし原尾州樓かり(国立国会図書館蔵)

遊郭といっても、吉原は遊女屋だけで成り立った町ではない。吉原の遊客相手の飲食業も盛んだった。重三郎が養子に入った茶屋の蔦屋も、そんな飲食業者の一つである。

享保6年(1721)の数字によると、吉原の人口は8171人。そのうち遊女は2150人、遊女の使用人である禿が941人であり、遊女自体は人口の約4分の1を占めるに過ぎなかった。

遊客が吉原へ向かうルートを辿ってみよう。

まずは、舟か駕籠か徒歩で山谷堀まで向かう。舟の場合は隅田川を北上し、山谷堀に近い今戸橋の辺りで降りることになる。山谷堀からは日本堤大通りと呼ばれた土手を経由し、駕籠あるいは徒歩で吉原へ向かった。土手には、遊客相手に飲食物を提供する葭簀張の水茶屋が立ち並んでいた。

「見返り柳」と名付けられた柳の木までやって来ると、左に曲がって「五十間道」という下り坂(衣紋坂ともいう)を進む。やがて吉原の入り口である大門がその姿を現わすが、大門に入るまでの五十間道にも茶屋が立ち並んでいた。

吉原の周辺だけでなく、郭内にも蕎麦屋や鰻屋など、飲食を楽しめる店舗が数多くあった。そもそも、吉原にやって来た客といっても遊女屋にあがる者だけではない。男女を問わず、全国からの観光客が大勢訪れる人気の観光名所となっており、吉原及び周辺の飲食店は、そんな観光客相手にも飲食物を提供していた。

遊女屋にあがる際には2つの方法があった。一つは、張見世というスタイルで、店頭に出ている遊女たちを見定めた上で、意中の遊女を指名する方法である。遊女屋との交渉が成立すれば件の遊女と床をともにする運びとなる。これは料金の安い遊女に限られた。

花魁と呼ばれるような格の高い高級遊女は、そうはいかない。揚屋を通す必要があった。

揚屋とは、遊客と遊女屋を仲介する店である。遊客が揚屋にあがって花魁を指名すると、指名があった旨の書状が遊女屋に送られる。遊客は芸者や幇間を呼んで宴席を設け、花魁の到着を待つ。指名した花魁が揚屋に向かうことを道中と称したが、これが吉原の名物にもなっていた花魁道中だ。

こうした手順を踏むのが仕来りであったため、揚屋を介して吉原で遊ぶとなると莫大な費用が掛かった。揚げ代(遊女屋へ支払う料金)のほか、宴席での飲食代、芸者や幇間への祝儀も負担しなければならず、揚げ代を数倍上回る費用が必要だった。

この方法は限られた者しか利用できなかったため、揚屋を介した遊興は衰退する。それに伴い、もともとは遊客を揚屋に案内した引手茶屋が、揚屋に代わって仲介役の立場となる。

引手茶屋を通して花魁を指名する場合も、茶屋で宴席を設けることは必須である。飲食代や芸者などへの祝儀、茶屋への手数料を含めれば相当の費用を要するも、揚屋ほど格式張っていなかった。要するに安く遊べたため、吉原での遊興は引手茶屋を介したものへ移行していったのである。

重三郎が養子に入った蔦屋は、吉原にやって来た遊客に飲食を提供するだけの茶屋ではなく、遊女屋への手引きを行う引手茶屋だったのだろう。

となれば、重三郎が遊女屋に顔が利くのは何の不思議もない。それがビジネスにもプラスとなったことは、これから述べるとおりである。

江戸には「日千両」といって、一日に千両もの大金が落ちた場所が、3つあったといわれる。朝に日本橋の魚河岸、昼に日本橋など(後に浅草)の芝居町、夜に吉原遊郭で千両ずつ落ちたという喩えだが、吉原の場合、遊女屋だけで千両落ちたのではない。茶屋などの飲食店で落ちた分を含めた金額だった。

蔦屋もそんな吉原の賑わいの一翼を担ったが、重三郎は長ずるに及び、出版という新規事業に挑戦していく。

 

著者紹介

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家

昭和40年(1965)、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学(文学博士)。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。おもな著書に、『明治維新 隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』など、近著に『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』がある。

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