(左)「俳優似顔東錦絵」に描かれた、白玉入りの冷や水を持つ男(国立国会図書館蔵)
(右)「美盾十二史」に描かれた食事。男性の隣には大きな飯櫃があり、手前の膳にはお椀と漬物の皿が並ぶ(国立国会図書館蔵)
コロナ禍で、需要が増えつつある宅配ビジネス。商品を直接自宅へ届けてもらうサービスは、実は江戸時代から既に存在していた。しかも、そばや天ぷらといった定番メニューだけでなく、現代ではあまり馴染みのない"意外なもの"までデリバリーされていたというが…!?
※本稿は、『歴史街道』2021年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
昨年来のコロナ禍を背景として、人との接触を避けられる宅配の需要は非常に増している。店頭販売から通信販売へのシフトに拍車がかかっているが、そんな宅配スタイルのビジネスは既に江戸の頃から盛んであった。
現代では、注文主と販売主を仲介する輸送業の発展が、増大の一途を辿る宅配の供給を支えているが、江戸時代は販売主が直接デリバリーするスタイルであった。手数料、つまりは人件費が不要な分、商品の代金は安く抑えられたとも言えるだろう。
デリバリーの主力商品は何といっても食料品である。笊に載せた新鮮な魚介類や野菜を、天秤棒で両肩に担いで売り歩く行商人(棒手振)の姿は、江戸の町を舞台にした時代劇ではお馴染みの光景である。
商品を売り歩くだけでなく、技術を提供して歩く職人も大勢いた。出張して鍋や釜、包丁などの台所道具を修理したのだ。技能のデリバリーといったところだろう。
この時代、江戸のような大都市でも商店街のようなものはほとんどなかった。その上、店頭販売よりも訪問販売が主流だったことがデリバリーの隆盛をもたらしたのである。
宅配が花盛りだった江戸時代には、意外な商品も出前されていた。以下、水や納豆の宅配、近郊の農民による干大根・茄子の宅配の事例を紹介していく。
江戸時代に入ると、城下町など大きな町には水道が引かれるようになるが、その水は清浄とは限らなかった。現在は浄水が金属管などで配水され、各家庭の蛇口を捻ればすぐ飲めるが、この時代の水道はそうではない。川や池の水を市中まで引いて井戸に溜め、それを汲み上げて使用するスタイルだった。
江戸の上水道として知られる玉川上水は多摩川の水、神田上水は井の頭池の水を引水したもので、浄水処置は施されていない。その上、木管で配水されて井戸にたどりつく過程で水質が悪化する危険性も高かった。木管の腐食が避けられなかったからである。
両上水が江戸の町をカバーできたわけでもなかった。引水されていない地域は井戸を掘ることになるが、江戸湾に近い下町は埋め立て地であり、井戸水はどうしても塩気が抜けなかった。
そのため、浄水されてはいないものの、木管で配水される前の水への需要は大きかった。井戸に溜まった水よりは新鮮とみなされたからだろう。水道が通っていないため、井戸水に頼らざるを得ない地域からの需要も大きかった。
そんな需要を受け、市中に引水された神田・玉川上水の水をそのまま販売する商売が生まれた。「水売り」である。両上水の余剰水は呉服橋門内の銭甕橋や一石橋の吐け口から放流されたが、幕府から余剰水を汲み取ることが許された者がデリバリーしたのである。
水売りは天秤棒の両端に桶を付けて売り歩いたが、夏には清冷な湧き水や井戸水を汲んで冷や水を売ることが多かった。その場合は「冷や水売り」と呼ばれたが、冷や水だけを売ったのではない。
桶から柄杓で水をお椀に入れ、その中に白玉(もち米で作った団子)と砂糖を入れて売っていた。そのため、江戸では白玉水売り、大坂では砂糖水屋とも呼ばれた。甘味が入ることで、売り上げのアップが期待できたのは言うまでもない。
白玉と砂糖入りの冷や水は1杯4文で売られ、かけ蕎麦1杯16文の4分の1の値段にあたった。白玉や砂糖を増量すると、8文ないし12文となる。
ところてん売りや西瓜売りに加え、冷や水売りが練り歩くのは、江戸の夏の風物詩であった。それだけ清浄な水の需要は大きく、出前のビジネスも成り立ったのである。