2019年12月27日 公開
※本稿は、大村大次郎著『土地と財産」で読み解く日本史』より、一部を抜粋編集したものです。
日本史上で“最大の資産家”は誰になるだろうか?
もちろん貨幣価値や土地の値段などは、時代によって大きく変わるので、正確な判定は難しい。が、大雑把に土地や資産などの所有関係を見たとき、もっとも財産を持っていた人物は、徳川家康だといえる。
まずは家康が、戦国武将としてどのくらい経済力があったのか、信長、秀吉と比較してみたい。
徳川家康というと、信長や秀吉に比べれば、経済的には地味なイメージがある。
諸大名や家臣に金の大判小判を振る舞った秀吉や、全国の茶器の名品を買い漁った信長の方が、金を持っている印象がある。
もちろん、信長や秀吉が健在の時点では家康よりもはるかに資産を持っていたことは間違いない。家康は、まだ一地方の領主にすぎなかったからだ。
だが、彼らが死んだ後、家康がため込んだ資産というのは、我々の想像をはるかに超えるものなのである。
「領地」だけを比較しても、家康は他の二人を圧倒している。
前述したように豊臣秀吉は、直轄領は二百二十二万石しかなかった。秀吉の存命中に徳川家康はすでに二百五十万石を領しており、また「関ケ原の戦い」「大坂の陣」の後には、四百万石を持つことになった。家康の圧勝である。
また信長と比べても同様である。信長の死の直前に、信長が勢力範囲としている地域は、だいたい四百万石くらいだった。しかし、この四百万石は家臣たちの所領も含めたところである。前述したように信長の場合は「直轄領」と「家臣領」の明確な線引きがなかった。所有関係で見るならば、「直轄領」と「家臣領」の間のようなものといえる。
家康の場合は、大坂の陣以降は、直轄領だけで四百万石あり、徳川家勢力全体では八百万石あった。
これも家康のほうがかなり分がいいといえるはずだ。
土地以外の資産を見た場合も、家康の方がかなり大きい。
信長や秀吉は、勢力圏内の主な金山、銀山を直轄地にしていたため、金、銀を大量に入手したことが知られている。信長は金の貨幣のようなものをすでに製造していたとみられ、秀吉の場合は、金の大判小判を実際に製造していた。
が、家康は信長、秀吉の金銀政策をすべて踏襲し、しかも「全国統一の後」に全国の主な金山、銀山をすべて直轄地としたために、日本中の金銀を手中に収めることになったのである。信長も秀吉も、日本の主要鉱山のかなりの部分を押さえていたが、家康ほど包括的に押さえていたわけではない。
戦国時代から江戸時代前半は、良質な金銀の鉱山が相次いで開発された時期であり、日本でもっとも金が採れた時代でもあった。家康は、その大量の金をできるだけ、自家にため込んだ。
家康は、「大法馬金」という金塊を大量に残していたことが知られている。
大法馬金というのは、幕府が蓄財していた運動のことで、金の大判2000枚でつくられ、一個あたり約300キロあった(150キロという説あり)。
家康はこの大法馬金を大量につくらせ、江戸期前半の万治年間には126個もあったという。金の大判一枚の金の含有量はだいたい165gなので、純金にして約42トンということになる。
現在、日本銀行が保有している金が、800トン前後である。
今から400年前の戦国時代に42トンの金を保有していたというのは、相当の財力だったといえるだろう。
42トンの金は、現在の時価相場に換算しても約2000億円である。当時は、世界の金の保有量が現在よりもはるかに少なかったので、相対的な金の価値は現代よりも高かったはずである。それを考慮して家康の資産額を現代価値に換算すると、想像もつかないような金額になるはずだ。
更新:12月04日 00:05