※本稿は、大村大次郎著『「土地と財産」で読み解く日本史』より、一部を抜粋編集したものです。
平安時代の末期、平清盛という軍事貴族が強大な勢力を持ち、朝廷を牛耳ることになる。
そして、その対抗勢力として、これも軍事貴族の源頼朝が現れた。
両者は各地で激しい戦いを繰り広げる。
いわゆる源平合戦である。
源平合戦というと、「武家の棟梁であった平氏と源氏が雌雄をかけて戦った」ということで、「戦い」そのものを論じられることが多い。
しかし、この源平合戦は、単に有力な武家の棟梁同士の戦いというだけのものではない。
「国家の変革」を賭けた戦いだったのである。
平清盛と源頼朝には、国家プランに明確な違いがあった。
清盛は朝廷のシステムの中での栄達と権力掌握を目指していた。一方、源頼朝はこれまでの朝廷システムではない、新しい国家システムの構築をもくろんでいた。具体的にいえば、国家が管理していた国土を、武家に解放し武家が全国の土地土地を管理運営するシステムに変更するということである。
ざっくりいえば、平清盛は「中央集権制度」を維持しようとし、源頼朝は「中央集権制度を壊して封建制度にしよう」としていたのだ。
この時期は、地方の豪族が急激に力をつけていた。
それまで、全国の土地の管理運営は、朝廷から派遣された「国司」と、その地域から選出された「郡司」で行なわれていた。
国司は、赴任期限が決められており、だいたい4年か6年たてば京都に戻る。
しかし、郡司はその土地の人間なので、引き続き土地の管理運営に携わる。郡司の業務は世襲化していき、当然のことながらその地方で大きな勢力を持つことになる。
その「郡司」が豪族となっていったのである。
また国司が、赴任期間が終わっても中央(京都)に戻らずに、その地域の根を下ろし、豪族になるという例も頻発していた。
また平安時代に急激に増えていた「荘園」に関しても似たような状況があった。
当時、荘園は全国各地に広がっていたが、その名義上の領主はそのほとんどが京都の貴族だった(寺社などを除いて)。
つまりは、日本全国の荘園の持ち主は京都に集中していたのである。当然のことながら、京都から地方の田を管理運営するのは非常に困難である。
となると京都から有能な者を派遣して経営を任せたり、現地の豪族に管理を委ねるということになっていく。
そして、荘園を任せられたものたちが、だんだん荘園内で実権を握っていく。そういうものたちのことを「在地領主」や「名主」という。
「在地領主」や「名主」たちは、最初は、荘園領主の命令に従っているだけだったが、やがて荘園領主の支配に反発したり、支配から抜け出すようになってきた。
そういう「在地領主」や「名主」も、平安時代の治安の悪化に伴い、各自が強固に武装するようになった。「在地領主」「名主」たちの間では、土地の所有権などを巡って、小競り合いをするようになり、必然的に武力が必要となったのだ。
彼らは、馬や武器を揃え、家人たちに訓練を施した。
こうして、地方に「武家」が誕生していったのである。
平氏や源氏などの軍事貴族というのは、この地方の武家たちを統率し、内乱の鎮圧などにあたることで勢力を伸ばしていったのだ。
平清盛は、この武家たちを朝廷のシステムの中で支配しようとしていた。土地の支配権はあくまで朝廷や中央貴族にあり、各地の武家は朝廷や中央貴族たちから土地の管理を委ねられているにすぎないという姿勢を崩さなかったのだ。
しかし源頼朝は、武家たちに土地の所有権を認め、朝廷や中央貴族たちの支配から解放させようとした。
源頼朝は、武家たちに対してその約束をすることで、武家たちの支持を得ることに成功し、平氏をしのぐ軍勢を率いることができたのである。
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更新:11月21日 00:05