一方の源頼朝の国家プランはどういうものだったのか?
鎌倉幕府をつくった源頼朝というのは、よく知られているように、少年時代に島流しにあってしまう。
平治元(1159)年、頼朝の父、義朝が平治の乱で平清盛に敗れ、戦いに参加した一族はことごとく殺された。頼朝だけは年少だったため命は助けられたが、伊豆に流されてしまうのだ。
頼朝の伊豆での生活は20年にも及んだ。
だが治承4(1180)年、二条天皇の弟の以仁王が、朝廷を牛耳る平清盛を倒すために、全国の源氏一族に秘密の挙兵命令を出す。
頼朝は、それに応じて伊豆で挙兵するのである。
頼朝は20年も伊豆に流されており、武家の統率力も薄れていた。
にもかかわらず、どうやって東国の武家勢力を結集させたのかというと、武家の権利を朝廷に認めさせたのである。
頼朝は、寿永3(1184)年2月25日、朝廷に対して4箇条の奏聞(提案)をしている。
そのうちの第2条で、「平家討伐の命令を下してほしい」と述べている。
朝廷の討伐令があれば、全国の武士団を動員することができるからだ。
そしてこの中で、頼朝は「戦においての武家への勲功は自分が行なう」としている。つまり、「戦に参加した武家に、朝廷が勝手に恩賞を与えてはならない」としたのだ。
これは実は、旧来の国家システムからは大きく逸脱したものだった。
旧来の国家システムでは、軍を動員したり、戦争を指揮するのは朝廷であり、勲功も当然、朝廷が行なうものだった。
頼朝は、このルールを変えて、自分が武士団を管理統括し、朝廷は武士団のことには口出しできないようにしようとしたのである。武家を朝廷から切り離すことで、朝廷の影響力を排除し、自分が武家の長となって、新しい体制をつくろうということである。
頼朝は他にも様々な権限を朝廷の後白河上皇に迫った。
全国に守護・地頭を置く権利や、全国の武士を指揮したり褒賞や処罰を与える権利なども獲得していった。頼朝は、朝廷の持っていた徴税権、軍事権、警察権などを次々に獲得していき、実質的な「政権担当者」となっていったのである。
それは各武家の土地の所有権や自治権を事実上、認めさせるものでもあった。頼朝が徴税権、軍事権、警察権などを握っているのだから、頼朝が各武家の権利を認めさえすればそうなるわけだ。
それにしても、後白河上皇はなぜこれほど気前よく、源頼朝に朝廷の権限を与えたのか?
おそらく平氏のあまりの権勢を恐れ、とにかく平氏を倒したいという思いが強かったのだろう。後白河上皇は平清盛に対して警戒感を抱き、平家の力を削ごうとしたが逆に清盛に攻められ幽閉されてしまったという経緯がある。
これ以上、平氏をのさばらせておくわけにはいかないという気持ちが、源頼朝に対する譲歩になったというわけだ。頼朝の方は、後白河上皇から譲渡された権限を最大限に解釈し、まんまと鎌倉政権をつくってしまったのだ。
更新:11月22日 00:05