2018年04月08日 公開
2019年03月27日 更新
久安3年4月8日(1147年 5月9日)、源頼朝が生まれました。河内源氏・源義朝の三男で、鎌倉幕府初代将軍です。
熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良御前を母に生まれた頼朝は、父・義朝が保元の乱で勝利すると、母の家柄を背景に昇進を重ね、平治元年(1159)には13歳にして右近衛将監、二条天皇の蔵人に補任されました。しかし同年末の平治の乱で義朝は敗れ、東国へ落ちる途中で討死。捕らえられた頼朝は平清盛に処刑されるところを、池禅尼の嘆願で命を助けられ、伊豆に流されたといわれます。
父や源氏一統の菩提を弔う伊豆での流人生活は、しかし決して楽なものではありませんでした。関東の豪族の中には父・義朝に力づくで臣従させられた者もおり、源氏の嫡流とはいえ一族の後ろ盾のない頼朝など、その気になればいつでも殺すことができます。頼朝にすれば、相手を侮らず、隙を与えず、己の面目を保たなくてはなりません。そうした緊張関係が、後の鎌倉幕府の厳格な御家人統制につながっていくことになります。
治承2年(1178)頃、頼朝は地元の豪族・北条時政の娘・政子と婚姻を結びます。時に頼朝、32歳。2年後の治承4年、以仁王の平家追討の令旨を受け、頼朝は東国の諸豪族に参集を呼びかけて挙兵しますが、石橋山の合戦に敗れて安房へ逃亡。しかし房総、武蔵の武士を味方につけることに成功し、父や兄・義平とゆかりの深い相模国鎌倉を本拠とします。
これに対し、平氏の追討軍が迫りますが、富士川の戦いでほとんど戦わずに勝利。また奥州から駆けつけた弟・義経を得て、東国の基盤を固める一方、義経らを代官として木曾義仲や平家一門を討たせました。さらに功を挙げた義経が頼朝の許しを得ずに任官すると、これを追放。義経が奥州藤原氏を頼ると、平泉に攻め込み、制圧しました。時に文治5年(1189)10月、治承4年以来、10年近く続いた内乱はここに幕を閉じます。
文治元年には全国に守護・地頭を置くことの勅許を得て、武家政権の強化を着々と進める頼朝の前に、最後まで立ちはだかったのは後白河法皇でした。建久元年(1190)、頼朝は上洛し、征夷大将軍就任を望んだものの認められず、代わりに権大納言、右近衛大将に任ぜられます。しかし頼朝は任官から一月も経たぬうちに辞官して、鎌倉に戻りました。これについては後白河法皇が征夷大将軍を授けることを拒んだためとされますが、むしろ拒んだのは頼朝の方であったともいいます。
実は幕府を開くについては、右大将もしくは辞官した後の前右大将でも可能でした。しかし頼朝はそれでよしとせず、後白河の崩御を待って征夷大将軍に就任するのです。なぜか。まず右近衛大将でよしとしなかったのは、職の性格が朝廷の近衛府の長官であり、朝廷から独立した武権の主の地位としては相応しくないと考えたからと見られます。その点、征夷大将軍は朝廷から独立して臨時軍政を布く権限を有しており、武家政権に適していました。
また後白河の崩御を待ったのは、法皇によって将軍に任命されるかたちを避けるためです。法皇に任命されれば、逆に解任する権限も法皇が持つことになります。頼朝は特定の個人ではなく、国家から征夷大将軍に任命されることで、実は「天皇をも例外としない」統帥権を獲得しました。後の承久の乱において、その権限が機能するわけです。頼朝の狙いは外れなかったというべきでしょうか。
更新:12月10日 00:05