江戸時代は冷凍設備が不充分だったこともあり、発酵作用により長期間保存が可能となる食品の人気が高かったが、納豆などはその象徴だろう。江戸では朝に1日分の飯米を炊くのが習いだったが、炊き立ての御飯に間に合うよう、朝早くに納豆売りがやって来るのが定番の光景となっていた。
当時、納豆は粒納豆、あるいは叩き納豆で売られた。叩き納豆とは、粒納豆を包丁で細かく叩き潰して三角や四角に固めたものである。そして、細い野菜や豆腐が添えられていた。
叩き納豆はそのまま食べるのではなく、味噌汁の具として使われた。味噌と一緒にお湯をかければ、野菜や豆腐などの薬味も入った「納豆汁」の出来上がりであり、パック詰めされた即席味噌汁の走りのような優れものだった。
冬に温かい味噌汁が喜ばれたのは言うまでもない。よって、納豆汁つまり叩き納豆は冬だけデリバリーされていたが、納豆汁の人気の高さから、次第に夏にも売られるようになった。
しかし、幕末に近い天保年間(1830〜1844年)に入ると、粒納豆だけがデリバリーされるようになる。温かい御飯に粒納豆を載せ、醬油をかけて食べるのが流行ったからである。それだけ醬油が安く手に入ったわけだが、納豆の風味をできるだけ損なうことなく味わいたい気持ちも強かったのだろう。
なお、京都や大坂では納豆は各家庭で自製されたため、納豆売りがやって来ることはなかった。店で売られることもなかったという(喜田川守貞『守貞漫稿』)。
当時の食事は、御飯、味噌汁そして香の物が基本メニューであった。現代に比べれば普段の食事はたいへん質素であり、香の物だけで御飯のおかずにすることは珍しくない。
香の物とは野菜を塩や糠味噌などに漬けて発酵させた食品のことで、要するに漬け物だが、この時代は漬け物の元となる野菜もデリバリーされていた。漬け物もデリバリーされた食べ物の1つだったが、当時は漬け物は自製するのが基本であった。
漬け物の筆頭といえば、大根を漬け込んだ沢庵を措いて他にないだろう。平安時代より塩・糠で漬けた大根漬けは作られていたが、撹拌せず重い石で漬け込む沢庵漬が登場したのは、江戸時代に入ってからである。
沢庵を自分で作る場合は干大根を購入する必要があったが、この時代は無料で手に入れる方法があった。下肥代として、近在の農民から納入させたのだ。
現在ではあまり想像できないが、当時は屎尿が下肥と呼ばれて農作物の貴重な肥料となっていた。農民たちは金銭、もしくは野菜を渡すことで、屋敷や長屋に出入りして屎尿を汲み取ることが許されていた。
農民が下肥代を野菜で支払う場合は、干大根何本・茄子何個納入という契約を武家屋敷や町屋敷と取り結び、汲み取り権を得るのが仕来りである。
大根や茄子の需要の高さがわかるが、干大根での納入となっているのは興味深い。すぐ漬けられるようにするため、干大根で納入させたのだ。茄子はそのまま漬けたのだろう。
『南総里見八犬伝』の作者として知られる曲亭馬琴の日記を読んでいくと、練馬村の伊左衛門という農民に汲み取り権を与える代わりに、年間で干大根300本、茄子300個を納入させていたことがわかる。
当時、馬琴は7人家族だが、2人は子供であり、子供2人で大人1人分と換算して6人分の下肥代だった。大人1人に付き、干大根と茄子を年に50個ずつ納入する契約が結ばれていたのである。
日記には書かれていないものの、馬琴は下肥と引き換えに入手した練馬産の干大根を自分の家で漬け、沢庵として味わったのであろう。茄子も漬け物にして食べたはずだ。
この3つの宅配の事例からは、江戸の食生活の意外な実像が見えてくるのである。
更新:11月21日 00:05