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江戸を大都市にした天海が、街に仕込んだ「秘密の仕掛け」

2013年03月28日 公開
2022年12月08日 更新

宮元健次(作家/建築家)

当時、世界随一の大都市だった江戸

大正18年(1590)、徳川家康が入封するまで、江戸城のまわりは湿地だらけで、竹の生い茂る荒れ地だった。

そんな関東の片田舎の江戸を、100万の人口を擁する大郡市に変貌させた男がいる。南光坊天海。家康の宗教政策ブレーンの彼こそが、江戸の発展を仕組んだ張本人であった。

富土山を北に見立て、町を螺旋状に広げていき、鬼門を寺社で封じ、さらに強力な地霊を祀る…。東京の原点に施されていた、秘密の仕掛けとは。

※本稿は『歴史街道』2013年4月号に掲載された記事を抜粋・編集したおのです。

 

江戸の発展を仕組んだ天海とは

問題、江戸をつくったのは誰でしょうか?

江戸といえば、「徳川家康」のイメージが強いのでその名前が挙がりそうですが、歴史に詳しい方であれば、「室町時代の武将の太田道灌」とか、あるいは「鎌倉時代以前にいた江戸氏」と答えるでしょう。「大工さん」なんて意表を突いた答えも出てくるかもしれませんが…。

では、「江戸発展の礎を築いたのは誰でしょうか?」という問いは、いかがでしょうか。いろいろな回答がありそうですが、やはり一番有力な答えは、江戸に幕府を開いた「徳川家康」でしょう。

とはいえ、江戸の町は家康の力だけでできたわけではなく、その陰には、多くの人の智恵や労力があったことは言うまでもありません。そして私は、とりわけある人物こそが、江戸の町が発展するように「仕組んだ張本人」であると思っています。

江戸の町は天正18年(1590)の徳川家康の入封によって整備され始めました。その頃、江戸城のまわりは湿地だらけで、城といっても石垣などはなく、竹が茂る荒れ果てた状態だったといいます。

しかし、家康はそんな関東の片田舎に過ぎなかった土地に本拠を置き、開発を進めました。江戸城のまわりに堀をめぐらし、その土砂で湿地を埋め立て、さらには東海道などの五街道を整備して、江戸に人や物が流入するようにしていったのです。

そして、このような町づくりを進めるにあたって、家康に助言を与える人物がいました。宗教政策担当のブレーンとして活躍した天台僧、南光坊天海です。実は彼こそが、江戸の発展を仕組んだ張本人でした。

天海は多くの謎に包まれた人物で、詳しい出自は不明ですが、一説では天文5年(1536)に会津の蘆名氏の一族として生まれたと言われています。108歳という長命で、3代将軍・家光にも仕えました(他にも134歳まで生きたという説や、明智光秀の後身ではないか、という説もあります)。

若き日に随風と号し、下野国粉河寺で天台宗を学んだ天海は、その後、比叡山延暦寺をはじめ、各地の寺で学を深めています。

そして、武田信玄や蘆名盛氏の招聘を受けてその元に赴いた後、天正16年(1588)に武蔵国川越の無量寿寺北院(現存の喜多院)へと移りました。やがて天台宗における関東の実力者となった天海は、家康の信頼を得て参謀として仕え、江戸の町づくりを担うことになるのです。

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