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江戸を大都市にした天海が、街に仕込んだ「秘密の仕掛け」

2013年03月28日 公開
2022年12月08日 更新

宮元健次(作家/建築家)

 

「四神相応」と「の」の字型の掘割

関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)に幕府を開きますが、その際、関東の地相を天海に見させました。

天台密教の僧侶は、天文、遁甲、方術などの陰陽道の知識を持ち合わせていましたが、天海はそれらを駆使して西は伊豆から東は下総(現在の千葉県)までの広大な土地の地相をくまなく調べ、その結果、江戸こそが幕府の本拠地とするのに相応しいと定めたのです。

その判断の基準となったのは、「四神相応」でした。「四神相応」とは、古代中国の陰陽五行説に基づく考え方で、いわゆる風水における大吉の地相を指します。東に「青龍の宿る川」が流れ、西に「白虎の宿る道」が走り、南に「朱雀の宿る水」、北に「玄武の宿る山」がある土地は栄えると考えられてきました。

中国の長安はこれに基づいて選定され、日本でも平安京(京都)がまさにそうです。

陰陽道を修めた天海は、江戸もこの「四神相応」に適っており、幕府の本拠地として相応しいと考えました。江戸は東に平川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったからです。

実際のところ、富士山は真北から112度もずれていますが、当時の江戸人たちはこれを北と見立てて、半ば強引に当てはめました。江戸城のつくりを見ると、大手門の向きなどもそれに合わせてずれた向きになっていますが、これは意図的に富士山を北に見立てた手法だと思われ、江戸は「四神」によって護られた土地と考えられたのです。

地形について言えば、さらにもう1つ、城が置かれた本丸台地は江戸の中でも特に地相がいい場所だったことが挙げられます。

江戸には上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金に台地がありました。本丸台地はこの7つの台地に囲まれており、各台地それぞれの突端の延長線が本丸台地で交わっています。陰陽道ではこうした地形の中心にはまわりの地の気が集まり、文明が栄えるとされるのです。実際に、江戸城があった現在の皇居の地面の磁気を測定してみると、通常の倍の数値があることがわかっています。

場所が定まった後には掘割が進められましたが、ここにも秘密がありました。通常、堀は城を円で囲むように掘られますが、江戸の場合は螺旋状の「の」の字型に掘り進められていったのです。

実は江戸城の内部も渦郭式という「の」の字型になっており、城を中心に時計回りで町が拡大していきました。面白いことに、江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例しており、外縁に広がっていくに従って人口も爆発的に増えていきます。つまり、町がどんどん外縁へと広がり、無限に成長していくように設計されていたのです。

 この「の」の字型の町割は、他にもいろいろな利点がありました。敵が容易に城に近づけないので攻められにくい、火災の類焼を防げる、物資を船で内陸まで運搬できる、開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる、などです。江戸では平城京や平安京のような方形の条坊制を採らず、螺旋状に発展する機能性に富んだ町づくりを行なったのです。

 こうした江戸城と堀の設計の実務面では、築城の名手であった藤堂高虎らが中心となり、天海は思想・宗教的な面で「陰の設計者」として関わっていました。工事が完成するのは寛永17年(1640)の家光時代で、その時すでに家康も藤堂高虎も他界していましたが、天海はなお存命しており、50年近い江戸の都市計画の初期から完成まで関わったのです。

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