昭和7年(1932)5月15日、五・一五事件が起こりました。海軍の青年将校たちが、犬養毅首相を暗殺した事件として知られます。
その日は日曜日でした。76歳の犬養首相は首相官邸におり、高齢ながら医師の診断を受けても健康そのものだったようです。午後5時30分頃、首相官邸に乱入した将校らは、警備の警官を銃撃し、食堂にいた犬養のもとに殺到します。そして一人が引き金を引きますが、弾が装填されておらず不発。犬養は慌てずに、一同を応接室に案内しました。自分の考えを、いま日本が置かれている状況を踏まえて説き聞かせる気だったのです。
ところが将校らは「問答無用」とばかりに犬養の腹部と頭部を撃ち、立ち去りました。女中たちが駆けつけると、犬養は「撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と、最後まで言論で説得しようとする姿勢を見せます。しかし傷は重く、日付が変わる前に絶命しました。丸腰の老首相を武装した軍人が射殺する、紛れもないテロリズムです。
しかし、なぜ青年将校たちはテロに走ったのか。それについては、当時の日本と世界の状況を客観的に見る必要があります。
3年前の昭和4年(1929)、ニューヨークの株式相場が大暴落し、世界恐慌が始まります。衝撃は日本をも襲い、翌年には「昭和恐慌」と呼ばれる大不況に陥りました。その最中に、ロンドンでは海軍軍縮条約が結ばれ、海軍軍人の政府に対する不満が募ります。一方、満洲では中国国民党の妨害とソ連の暗躍で権益が脅かされ、昭和6年(1931)、状況打開のために関東軍が満洲事変を起こしました。我慢を続けてきた日本国民は、これに喝采を贈ります。さらに国内では、飢えに苦しむ貧しい農村で娘たちの身売りが日常化していました。そうした背景の中で、国家社会主義ともいうべき思想が蔓延します。「貧困にあえぐ国民がいる一方で大資本家が経済搾取を行なっている。それを助長する政党政治を倒さなくてはならない」というものでした。
そして事件直前の2月、3月には血盟団による前蔵相・井上準之助、三井財閥の團琢磨射殺事件が起きます。これには民間団体の血盟団がテロを実行してみせれば、海軍の青年将校たちも重い腰を上げるだろうという目論みがあったといわれます。
事件後、軍法会議にかけられた青年将校たちに、多くの国民から助命嘆願が寄せられたことも、時代の空気を示すものとして見逃せません。こうした背景と国内の空気の中で、4年後により大規模な二・二六事件が起きるのです。
ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将の遺品の中に、五・一五事件の将校たち全員の顔写真が掲載された当時の新聞があります。よく見ると、その顔一つひとつにペンで丸眼鏡やらひげやら、子供のいたずらのような落書きが描かれていました。多聞がどんな思いで落書きしたのかは想像するしかありませんが、この事件に否定的な思いがあればこそ、でしょう。おそらく「軍人の本分は有事に備えることで、政治に口を挟むことではない。まして銃口を国民に向けるなど論外である」という思いではなかったでしょうか。