2019年06月05日 公開
2022年12月28日 更新
昭和11年(1936)2月29日、二・二六事件は鎮定された。その時、青年将校たちはどんな行動をし、どうなったのであろうか。
事件最終日の2月29日午後2時、将校たちは下士官兵を帰したうえで陸相官邸に集い、その後の方針を話し合った。
その結果、陸軍上層部が自分たちを自決させようとしているのを察し、法廷の場で、思うところを訴えようと考える。
武装解除され、憲兵に拘束された将校たちは、29日午後6時頃、陸軍東京衛戍刑務所に送られた。
しかし、その思いとは裏腹に、待っていたのは厳しい裁判であった。
青年将校たちは、東京陸軍軍法会議と称される、弁護人なし、非公開、上告なし(一審制)という制度で裁判を受けることになる。
これは、急いで厳罰を下そうとする、陸軍の思惑が反映されたものだった。
こうした裁判のあり方には、青年将校たちも憤懣やるかたなかったという。
第1回公判は4月28日に行なわれ、判決は7月5日に出される。将校と襲撃に加わった民間人、計17名が死刑となった。
そのうち15名は、7月12日に銃殺刑が執行され、磯部浅一と村中孝次は、北一輝と西田税の裁判のために執行が延期された。
一方、北は2月28日に逮捕され、西田は3月4日に検挙されていた。
2人に対する第1回公判は10月1日に行なわれ、2人を極刑にしようとする陸軍上層部と、公平な裁判を求める裁判官が対立した末、昭和12年(1937)8月14日、2人に死刑判決が下される。
その5日後の8月19日、北と西田は、磯部と村中とともに銃殺された。
青年将校と近しい関係と見られていた真崎甚三郎は、昭和11年4月に憲兵の取り調べを受ける。翌12年6月には第1回公判が行なわれるものの、同年9月、無罪判決が出された。
これ以外にも、事件は様々な余波を残した。
事件終結後の3月、岡田啓介内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立する。
その組閣の際、陸軍統制派の武藤章は、寺内寿一を陸相に推し、さらに寺内とともに、吉田茂らの入閣を拒否するなど、広田に様々な圧力をかけた。
また組閣後、陸軍では寺内陸相のもと、粛軍が行なわれる。
皇道派は主要メンバーの多くが予備役に編入され、事実上、陸軍中央から一掃された。
こうした事件後の処置により、統制派は陸軍内だけでなく政治面でも強い影響力を持ち、それは太平洋戦争まで、続くこととなる。
事件は、多くの人を巻き込み、また多くの思惑と絡みながら、日本の歴史を大きく変えていったのである。
参考文献‥北博昭『二・二六事件 全検証』、筒井清忠『二・二六事件と青年将校』ほか
更新:12月12日 00:05