2018年02月26日 公開
2019年01月24日 更新
昭和11年(1936)2月26日、ニ・ニ六事件が起こりました。陸軍皇道派の影響を受けた青年将校たちが、「昭和維新断行、尊皇討奸」を掲げて兵を率いて決起し、政府要人などを襲ったクーデター未遂事件です。
青年将校たちの精神的支柱となったのは、国家社会主義者の北一輝が著した『日本改造法案大綱』でした。ニ・ニ六事件の真相についてはいまだに謎が多く、様々な解釈もされていますが、一種の社会主義革命であったともいわれています。
陸軍内の皇道派と呼ばれる派閥の影響を受けていた青年将校の一部は、政治腐敗や農村の困窮をもたらしている元凶は元老重臣たちであると考えました。彼らを暗殺すれば、天皇親政が実現して「昭和維新」が成ると呼びかけて決起します。その標的とされたのは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣らでした。実際は他にも候補が挙がっています。
斎藤内大臣夫妻は前日の夜、アメリカ大使館のジョセフ・グルー大使より夕食に招かれ、その後、館内で上映されたトーキー(映画)を鑑賞、斎藤は生まれて初めて見るトーキーを大変喜んだといいます。斎藤は元海軍大将で、親米派として知られました。斎藤夫妻が四谷の自宅に帰宅した数時間後、坂井中尉らの襲撃を受けます。襲撃者たちは屋敷内に侵入すると、40数発もの弾丸を斎藤に浴びせました。この時、目の前で夫を撃たれた春子はとっさに将校らの前に立ちはだかり、「撃つなら私を撃ちなさい」と素手で銃口をつかみました。このため春子も貫通銃創を負います。さらに彼女は倒れた斎藤の上に覆いかぶさり、夫をかばいました。翌朝、変事に驚愕して弔問に訪れたグルーは、腕を三角巾で吊ながら、夫の遺体の傍らに、毅然として端座する春子の姿を見ています。
一方、鈴木貫太郎侍従長も前夜、斎藤とともにアメリカ大使館の夕食に招かれていました。鈴木もまた元海軍大将であり、日露戦争では「鬼貫」のあだ名で知られた男です。麹町三番町の侍従長公邸を、安藤輝三大尉率いる一隊が襲ったのは午前4時50分頃でした。踏み込んだ将兵に、鈴木が「まあ落ち着きなさい。まず理由を聞こうじゃないか」と問うと、将兵らは「閣下、時間がありませんから、撃ちます」と応えます。鈴木が「そうか。だったら撃ちなさい」と言って仁王立ちになると、下士官が4発の銃弾を撃ち込みました。さらに倒れた鈴木に止めを刺そうと、指揮官の安藤が近づくと、妻のたかが安藤の前に立ち塞がります。「あなたは誰です? 主人はお国が必要としている人ですから、やるなら私をやりなさい!」。気迫のこもったたかを前に、安藤は「失礼しました」と軍刀を納め、敬礼して立ち去りました。この時、止めを免れたことで鈴木は奇跡的に一命を取り留めます。
襲撃の手は湯河原に滞在していた牧野伸顕にも及びました。牧野は大久保利通の次男で、欧米協調派です。湯河原の伊藤屋旅館の別館「光風荘」を襲ったのは、河野寿大尉が指揮する一隊でした。兵士らはまず牧野を外に出すために、旅館に火をつけます。 騒ぎに気づいた牧野は、旅館の裏手から脱出を図りました。裏手は垂直に近い崖になっており、牧野は看護婦の先導で崖を登ります。彼の傍らには、幼い孫娘の和子がいました。しかしほどなく、それ以上登れなくなり、進退に窮してしまいます。 牧野らはすぐに兵士らに見つかり、ライトの強い光に照らし出されました。兵士らが銃口を向けた、その時です。牧野の傍らにいた和子が着物を広げ、祖父の体を隠しました。少女の勇敢な行動には兵士たちも胸を打たれ、ついに誰も狙撃はできませんでした。 ちなみにこの和子が、現在の麻生太郎財務大臣の母親です。
その他、岡田首相も首相官邸で襲われ、死亡したと伝わりましたが、実は襲撃を受けたのは岡田の警護を務めていた松尾伝蔵予備役陸軍大佐で、岡田はとっさに押入れに隠れて無事でした。 岡田の訃報に集まった親族が、「寝棺にするか、座棺にするか」と相談していると、「俺は熱燗がいい」と言いながら、当の岡田が押入れから出てきたというエピソードも伝わっています。
ニ・ニ六事件は3日間で鎮圧され、青年将校らは処刑。これによって皇道派は壊滅し、統制派が陸軍の主流となり、その目を北ではなく南に向けていくことになります。この事件については謎の部分も多く、真相は十分に解明されたとは言えません。ただ、その後の日本の進路を変えたことだけは確かでしょう。
更新:11月21日 00:05