2025年07月27日 公開

人生とは何が起こるかわからないもので、それは戦国時代も変わらない。才知をもって家を守り抜いたかと思えば、晩年に思わぬ辛さを味わう者もいれば、城から追われる悲運を味わいながら、悪くはない最期を迎えた者もいる。ここでは、戦国大名としての今川家を滅ぼしてしまった今川氏真、「鬼島津」と称された猛将・島津義弘という対照的に見える二人の晩年を紹介しよう。
今川氏真は天文7年(1538)に、駿河・遠江の戦国大名・今川義元の嫡男として生まれた。父・義元が永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦で敗死したことから当主として難局に当たるが、今川家の保護下にあった国衆の岡崎松平家の当主・松平元康(のちの徳川家康)は離反した。
永禄11年(1568)12月には武田信玄の駿河侵攻を受け、氏真は遠江の懸川城へ敗走するが、翌年、懸川城を家康に明け渡し、妻・早川殿の実家である小田原北条家の元に移った。ここに、戦国大名としての今川家は滅亡した。氏真、32歳のときのことである。
のちに小田原北条家からも離れ、氏真は家族とともに、家康の庇護を受けることとなった。
天正18年(1590)、氏真が53歳のとき、秀吉の小田原攻めにより北条家が滅び、家康は関東へ転封となった。 だが、氏真は家康に同行せずに、家族で京に上ることを選んだようである。翌天正19年(1591)から、公家・山科言経の日記『言経卿記』などに、氏真が登場するからだ。氏真は、仙巌斎(仙岩斎)という斎号を称している。
京都での氏真は、歌会に出席して公家たちとの交流に時間を費やすなど自適な生活を送ったという(小和田哲男『駿河今川氏十代 戦国大名への発展の軌跡』)。
京都での生活費は、家康から与えられた所領でまかなわれたとみなされている(黒田基樹『徳川家康と今川氏真』)。
慶長17年(1612)4月、氏真は京都から駿府の家康を訪ね、対面している。氏真は75歳、家康は71歳になっていた。その後、氏真は江戸に居を移している。
翌慶長18年(1613)2月15日、氏真の妻・早川殿がこの世を去った。氏真と結婚してから59年の月日が流れていた。
そして、翌慶長19年(1614)12月28日、氏真も77歳で死去し、長い流浪の日々に終止符が打たれた。
戦国大名今川家当主の座は失ったが、和歌などを楽しみながら、夫婦揃って長寿が叶った。氏真にとって悪くない人生だったと思いたい。
「鬼島津」の異名を持つ猛将・島津義弘は天文4年(1535)7月、薩摩国伊作(鹿児島県日置市)に生まれた。 父は、島津家中興の祖と仰がれる島津貴久。兄に十六代島津家当主となった義久、弟に歳久、異母弟に家久がおり、義弘は最前線で指揮を執り、華々しい軍功をあげていった。
島津家は薩摩・大隅・日向の3カ国を制し、九州統一まであと一歩と迫ったものの、秀吉に敗れ、豊臣大名として存続した。その後も義弘の戦いは続き、文禄の役に58歳、慶長の役に63歳で参戦している。
66歳で挑み、最後の戦場となった関ケ原合戦では、義弘が与した西軍が敗北。のちに義弘の子・島津忠恒(のちの家久)が、初代薩摩藩主となった。
義弘は隠居したが、晩年は農業の発展のために水利開墾を促進し、植林や牧畜、養蜂の事業も進めるなど、藩主となった忠恒の領国経営を支えた。明(中国)やルソン(フィリピン)、琉球王国などとの交易にも尽力しており、国の繁栄を心から願っていたのだろう。
80歳を超えたころには、のちに『惟新公御自記』と称される、自らの武功や見聞などを綴った自伝を残した。千利休から茶道を伝授されており、晩年は茶事を好んだという。
義弘は生涯52回の合戦に挑んだという強者であるが、元和3年(1617)2月中旬、中風(脳卒中)で倒れ、元和5年(1619)7月21日、加治木屋形(鹿児島県姶良市)で亡くなった。享年85。義弘の後を追うように、十三名の家臣が殉死していった。
【鷹橋忍(たかはし・しのぶ)】
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『戦国武将の合戦術』『滅亡から読みとく日本史』などがある。
更新:08月01日 00:05