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旧領復帰の夢が叶わず、和歌で心を慰めていた戦国武将・今川氏真

2025年04月21日 公開

橋場日月(作家)

諏訪原城跡地

戦場での活躍こそが華とされ、武功を挙げた人物が注目されることが多い戦国武将。しかし、合戦での功績は少なくとも、文化面で大きな足跡を残した武将たちもいました。時代が違えば、より評価されていたかもしれない人物も...。本稿では、旧領回復の夢を抱きつつ、和歌に親しんだ武将・今川氏真を紹介します。

 

旧領回復の夢を抱くも...

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで駿河・遠江・三河の大大名・今川義元は討ち死にを遂げる。義元の子・氏真は天文7年(1538)生まれで、このとき23歳。実権を持っていた父が、自分だけでなく重臣と2万5千の兵の多くを道連れにして死んでしまったことで、氏真は身動きの自由を失ってしまった。 そのうえ、三河岡崎の松平元康(のちの徳川家康)が離反。氏真は三河に一向一揆を蜂起させたが、遠江でも今川家から離反する動きが起こる。

動きに窮する氏真に対し、甲斐の武田信玄が牙をむいたのは永禄11年(1568)のことだった。

駿河に攻め込んだ武田軍に氏真は抵抗もできず、遠江掛川城に落ちのびたものの、今度は徳川家康に城を包囲され、半年後に城を明け渡して舅の北条氏康を頼り、やがて浜松の家康に保護されるようになった。

旧領回復の夢を抱き続ける氏真は、家康や織田信長に働きかけるのだが、なかなか実現の目処はたたない。天正3年(1575)、父の仇である織田信長に拝謁し、京・相国寺で蹴鞠を実演披露したが、これも旧領回復運動の一環で、直後に長篠の戦いが起こると馳せ下って家康に従軍し、後詰役を務めている。

この戦いの後、氏真は一時信濃諏訪原城(牧野城)を与えられたのだが、結局1年も経たずに解任されてしまう。その際の彼の、「本意の時が来たならば再び奉公すべし」という家臣への解雇通知状に、家名再興への執念を見ることができるのだが、結局その機会がおとずれることは無かった。

そんな氏真の心を慰め、支えたのが、和歌だった。天正3年に京で信長に面会した際には、歌人で旧知の三条西実澄と交流している。

若き日の氏真は、京文化を積極的に採り入れた本拠の駿府で、和歌に親しむ生活を送っていたものと思われる。彼は多くの和歌と句を詠んでいるのだが、天正3年には実に426首と2句を作っている(『今川氏真詠草』)。

天正19年(1591)以前に京に隠棲してからはその後の和歌の一部を『草庵中』などと呼ばれる一連の和歌集にまとめたものと思われる。多くの和歌会や連歌会に出席し、趣味生活を楽しんだ氏真だったが、家康から江戸に屋敷を拝領して移住。慶長19年(1615)12月28日に77歳で世を去った。

 

著者紹介

橋場日月(はしば・あきら)

作家

昭和37年(1962)、 大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に 歴史研究、執筆を行なう。著書に『地形で読み解く 「真田三代」最強の秘密』『新説 桶狭間合戦─知られざる 織田・今川七〇年戦争の実相』『明智光秀 残虐と 謀略─一級史料で読み解く』などがある。

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