2017年12月28日 公開
2022年08月01日 更新
慶長19年12月28日(1614年1月27日)、今川氏真が没しました。今川義元の息子で、父の死後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、駿河今川氏を滅ぼしました。2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」では、尾上松也さんが好演しておられましたが、世間的には愚将のイメージがつきまといます。はたして、実際の氏真はどうであったのでしょうか。その生涯をみていきましょう。
氏真は天文7年(1538)、駿河守護の戦国大名・今川義元の嫡男に生まれました。幼名、龍王丸。母親は武田信虎の娘・定恵院(武田信玄の姉)。氏真にとって信玄は、叔父にあたります。天文23年(1554)、17歳の時に、北条氏康の長女・早川殿と結婚。太原雪斎が音頭をとったといわれる「甲相駿同盟」の一環でした。弘治2年(1556)、氏真は駿河を訪問した公家の山科言継と親しく交わって、歌会を催し、書などを送っています。
永禄元年(1558)頃、21歳の氏真は父・義元より家督を譲られ、駿河・遠江の経営を任されました。義元が形式上隠居したのは、新たに獲得した三河の経営と、尾張進攻に力を注ぐためであったようです。しかし永禄3年(1560)、父・義元は桶狭間の戦いで織田信長に討たれました。父の急死で否応なく、名実ともに今川家当主となった氏真ですが、義元の死が引き起こした領国の混乱に直面します。
まずは西三河の松平元康(徳川家康)の離反・独立でした。 元康は父祖以来の岡崎城を得ると、親今川勢力を排除して西三河を押さえ、さらに尾張の織田信長に接近します。この動きに東三河の国人も松平につくか、今川につくかで混乱が起きました。氏真は吉田城代の小原(大原)鎮実に収拾を命じますが、小原が見せしめとして人質十数名を処刑したため、かえって今川からの離反者が続出します。
永禄5年(1562)正月、元康は信長と正式に清洲同盟を結び、名も家康と改めて、今川との断交を決定づけました。同年、氏真は自ら三河牛久保城に出兵し、牛久保城と吉田城を拠点として松平方を攻めます。しかし松平方の奮戦もあり、一進一退の中、永禄7年(1564)の吉田城の陥落で、今川方は三河から駆逐されました。
動揺は遠江でも広がり、井伊谷の井伊直親、曳馬城(浜松城)の飯尾連龍らが今川からの離反の動きを示します。氏真は朝比奈泰朝に井伊を討たせ、また今川に降った飯尾を駿府に呼び出して、これも謀殺しました。こうした氏真の対応が、遠江の諸将の反感を買うことになります。
そして、今川領内の混乱に注目していたのが武田信玄です。今川と武田は甲駿同盟を結んでいましたが、信玄は駿河侵攻を密かに決意しました。これに氏真の妹を正室に持つ嫡男・武田義信が反対すると、義信を廃嫡し、正室を駿府に送還、今川との間は険悪化します。さらに信玄は三河の家康に大井川を境に今川領分割を持ちかけ、密約を結びます。
永禄11年(1568)、信玄は駿河侵攻を開始。氏真は薩埵峠で迎撃すべく出陣しますが、内通者が多数出て、戦わずに潰走しました。駿府は陥落、氏真は朝比奈泰朝の遠江曳馬城へ逃れます。一方、機を同じくして遠江は家康が席捲し、氏真が逃れた曳馬城は徳川勢に囲まれました。ところが武田が約定を違え、遠江へも侵攻の構えを見せたため、家康は武田と手を切り、北条氏政を仲介役にして氏真と和睦。家康は曳馬城を接収する代わりに、駿河から武田を駆逐した暁には、駿河を氏真に返すと約束します。
かくして領国を失った氏真は、正室の実家・北条氏を頼って伊豆に落ち、やがて氏政の子・国王丸(後の氏直)を猶子にして、国王丸が成長したら駿河を譲る約束をします。しかし元亀2年(1571)、氏政が方針を変えて武田と和睦したため、氏真は北条の下を離れ、浜松の家康を頼りました。
天正3年(1575)、氏真は上洛の旅に出ました。京都では社寺参詣や公家を訪ね、3月には相国寺で父の仇・信長と対面しています。『信長公記』によるとこの時、信長に所望され、蹴鞠を披露しました。氏真の心中は、彼が詠んだ次の歌が象徴しているのかもしれません。
悔しともうら山し共思はねど 我が世に代はる 世の姿かな
同年、長篠の合戦が起きると、氏真は三河牛久保城で後詰を務め、合戦後は駿河の牧野城(諏訪原城)攻めに参加。城が落ちると、家康は氏真を牧野城主としました。氏真は信長から、武田家中の切り崩しを命じられますがうまくいかず、1年足らずで城主は解任となり、再び浜松暮らしとなります。
天正10年(1582)、武田氏が滅ぶと、家康は信長に、駿河を氏真に与えれば国人衆もなびくのではと進言しますが、信長は「氏真に何の功があるか」と却下しました。家康は氏真と北条氏政との間で結んだ約束を忘れていませんでしたが、実現はならなかったのです。
その後の氏真は足どりがつかみにくくなりますが、本能寺の変後、羽柴秀吉が天下を取った頃には京都にいて、公家と交わり、古典の研究などをしていました。秀吉が没する慶長3年(1598)には次男・高久が徳川秀忠に仕えています(高家品川家の祖)。 関ケ原の合戦も終わり、徳川が天下を取ってしばらく経った慶長17年(1612)には、京都の冷泉家で行なわれた連歌会に出席。またその頃のこととして、家康を江戸城に訪ねては、長話をする氏真に閉口した家康が、氏真の屋敷を城から遠い品川に与えたという話も伝わります。
慶長19年12月28日、氏真没。享年77。今川家は氏真の孫・直房が幕府の高家今川家の祖となり、代々続くことになります。氏真の生涯を追ってみると、傑出した武将ではないものの、愚将と貶められるほどではなく、相手が強すぎためぐり合わせの悪さと、運命を達観していたような印象も受けるのですが、いかがでしょうか。
更新:12月04日 00:05