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「すべては毛利のために」父の教えを守り続けた吉川元春の生涯

2026年07月03日 公開

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

備中高松城址
備中高松城址

わずか12歳で初陣を飾り、数々の戦で勝利した戦国武将・吉川元春。武勇に優れた印象が強い元春だが、実は文化人的な面や、戦略家としての横顔をもち合わせていた。

生涯を懸けて、毛利本家を一途に支えようとした名将の足跡をひも解く。

※本稿は、『歴史街道』2024年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

12歳で初陣を飾る

吉川元春は享禄3年(1530)、毛利家の次男として生まれました。父・毛利元就が安芸国で戦国大名として羽ばたきはじめる、最初の頃にあたります。

安芸国には十以上の「国衆」がどんぐりの背比べ状態で存在しており、周囲を見渡せば、東には尼子、西には大内という毛利家を上回る戦国大名がいました。

あるときは尼子につき、またあるときは大内につくなど、元就は時代の流れを的確に判断しながら、毛利の勢力を伸ばそうとしていました。そういった時期に、元春は成長していったのです。

尼子か大内、どちらかにつかないと生き延びられないような状況だった毛利家が、他の国衆のなかから一歩抜きん出て、安芸を代表する戦国大名にのし上がれたのは、吉川家と小早川家を味方につけたことが大きかったといっていいでしょう。

元就は、吉川家の当主だった吉川興経に不満をもつ一族の吉川経世らに働きかけ、天文16年(1547)、興経を隠居させて、元春を吉川家の跡継ぎとして送り込むことに成功しました。元春の吉川家相続は一見、平和裏に事が進められたようにも思えます。

しかし、元春が吉川家を継いでからわずか3年後、元就は興経を殺害しているので、実は裏では不協和音が生じていたと考えても、穿ち過ぎではないでしょう。

お家乗っ取り劇の裏側を知る人の中には、元就が息子を押しつけてきたと捉える人もいたでしょうし、吉川家に全面的に歓迎されたわけではなく、元春はプレッシャーを感じたはずです。

それでも吉川家に受け入れられたのは、家臣団のなかで元春の力量を評価する人たちがいたからではないでしょうか。というのも、元春は、若い頃から「武勇」という光るものをもっていたからです。

天文10年(1541)、尼子氏との戦いである吉田郡山合戦に、元春はわずか12歳にして出陣。初陣ながらもしっかりと手柄を立てています。

十代半ばで元服し、初陣を飾る武将が多いなか、元春の12歳での初陣は早すぎるようにも思えますが、それだけ、父の元就が元春に期待していたとも捉えられます。

そしてそんな武勇に優れた元春の様子を見て、当初は彼が当主になることに反対だった吉川家の人たちも、「この若君なら、吉川家を盛んにしてくれる」という期待感をもつようになったのかもしれません。

 

実は文武両道だった

先にも挙げた通り、吉川元春は武勇に優れた人でした。

永禄8年(1565)から翌年にかけて、毛利家と尼子家との間で第二次月山富田城の戦いが勃発します。

このとき、毛利元就は軍を三手に分けて、いわゆる第一軍に元就、第二軍に元春と元春の嫡男・元長、第三軍に元春の弟の小早川隆景がつきました。

その際、元春は、尼子方の山中鹿介が守る塩谷口を攻めています。鹿介は尼子の猛将として知られる人物です。そこを元春に任せていたことからも、元就が元春の武勇を認めていたことがうかがえます。

兵糧の尽きた尼子側が降参し、第二次月山富田城の戦いは終わります。元春の働きも大いにあったうえでの勝利だったといえるでしょう。

また、永禄12年(1569)の大友宗麟との筑前立花山城の戦いでは、元春らの働きで、大友方の立花山城は一時、毛利方となりました。

しかし、山中鹿介らに擁立された尼子勝久が、織田信長の支援を得て動き出したため、元就は撤退することを決断。ところが元春は、「せっかく取った城を捨てるのはもったいない」と、撤退に異を唱えており、この逸話からも、武勇に自信があったと捉えていいでしょう。

ただ、元春が優れていたのは、武勇だけではありませんでした。

尼子攻めの陣中で、『太平記』を書写していたという話もあり、古典を学んで先人たちの戦法を身につけようとする文化人的な側面も見られます。

また、よく知られる逸話として、元就から、嫁をむかえるにあたって望む娘がいるかを聞かれた際に、不美人との噂があった熊谷信直の娘の名を挙げ、娶っています。

信直は毛利家のなかでも有力武将であり、その娘を望むことで、恩を感じた信直が自分のために働くだろうという、一種の思惑のようなものがあったとも取れ、政治的な思考ができる人物であったこともうかがえます。

 

毛利両川の兄弟仲

吉川の「川」と小早川の「川」の二本の川が、毛利本家を支えたということで、元春と弟の隆景は「毛利両川」といわれますが、二人は生涯、「毛利家のために、自分たちは何をしたらいいか」を考えながら動いていました。

元春と隆景の兄弟仲が実際、どのようなものだったのかについては、史料も多くないため詳しくは分かりません。

ただ、永禄6年(1563)に兄・毛利隆元が急死してしまったことで、11歳で毛利家の跡を継いだ隆元の長男・輝元を支えるという使命感があった点で、元春と隆景の思いは一致していました。

二人の働きは、当主が幼くても、叔父がしっかり支えていけば家が発展できることを示した一つの例だといっていいでしょう。

親子の争いすらあった戦国時代においては、兄弟の争いも多く、兄弟が争わずに家を保った例としてすぐに思い浮かぶのは、北条家や島津家ぐらいではないでしょうか。

もちろん当時は、兄弟がお互いにライバル意識を抱くのが普通でしたから、羽柴秀吉の中国大返しにあたって二人の意見が対立したことを踏まえると、一種のライバル的な関係があっても不思議ではないです。

また、兄の嫡子とはいえ、「若い輝元に代わって、自分が跡を継ぐ」と、元春が名乗りを上げてもおかしくはありません。しかし、それをやろうとしなかった義理堅さは評価すべき点の一つです。

父である毛利元就の「兄弟が仲良くしないと、毛利家はつぶれる」という「三子教訓状」、のちに有名な「三本の矢」の逸話にもなる教えが身に染みていたといえますし、元就から託された「毛利本家を頼む」との言葉が、元春の一生を貫いていたのではないでしょうか。

 

なぜ秀吉に反発したのか

天正10年(1582)、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めした際、城主の清水宗治を助けるべく、元春と隆景は、後詰めとして出陣しました。

しかし6月2日に織田信長が明智光秀に討たれたという情報が、備中高松城を攻めていた秀吉に入ります。ここで秀吉は、「城主の清水宗治の切腹を見届けたら兵を引く」と、毛利輝元に和睦をもちかけました。以前から和睦交渉の機運があり、突然の話というわけでもなかったため、毛利方はそれを受け入れます。

清水宗治が自害すると、秀吉は有名な中国大返しを始めるのですが、その直後、毛利方も信長の死を知ります。

そこで元春は、秀吉追撃の命令を出そうとしました。後ろから毛利が秀吉を攻め、前にいる光秀と挟み撃ちにすれば勝てると踏んだのでしょう。

ところが、弟の隆景は「誓書を取り交わした直後に約束を破るのは、毛利家の家風ではない」と反対します。

当主である輝元自身がどう考えていたのかは、史料が残っていないので分かりませんが、隆景の言い分に賛成したために追撃軍を出さなかったと考えるのが妥当です。

元春が秀吉を追撃しようとした背景には、信長や秀吉によって天下が取られていくことを、元春が面白くない思いで見ていた可能性もありますが、そもそも、元春のもとに秀吉に関する情報があまり入っておらず、その実力が把握しきれていなかった可能性も考えられます。

元春の所領は山陰でした。一方、隆景の所領は、山陽、瀬戸内沿いにありました。より京に近い隆景のもとには、秀吉に関する情報が多く入ってきており、その力量を隆景は元春よりも把握していて、追撃をよしとしなかったのかもしれません。

この後、光秀を討って信長の後継者となった秀吉は、元春を冷遇し、隆景を優遇するようになります。「隆景が追撃を止めてくれたから助かった」という思いと、「元春は自分を攻めようとした」という思いが、秀吉の頭の中で渦巻いていたのかもしれません。

元春が天正10年の末に元長に家督を譲って隠居したのは、秀吉に屈するのをよしとしなかったからだともいわれますが、真相は分かりません。

ただし、完全に第一線から退いたわけではなく、秀吉軍の一員として天正14年(1586)、九州の島津攻めに従軍し、この年の11月15日、豊前・小倉の陣中で病死しています。

 

毛利家を支え続けた元春の思い

毛利のために命を懸け戦い続けた元春ですが、戦に強かったと知られていても、どの戦いでどういう手柄を立てたのか、具体的な話はあまり語り継がれていません。

それは元春に関する史料が少ないからです。弟の隆景が、秀吉のもとで優遇された「勝ち組」だったのに対して、冷遇された元春は「負け組」に近い印象が強いため、あまり語られることがなかったという側面もあります。

元春の隠居後、吉川家を継いだ元春の嫡男・元長でしたが、元春の死の翌年に病死してしまい、弟の広家が跡を継いで吉川家を支えることとなりました。

ご承知のとおり、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、広家は南宮山に布陣して戦いには加わらず、いわゆる毛利不戦の元となりました。

毛利輝元は西軍の総大将ですから、徳川家康は輝元の所領だった120万石を取り上げ、毛利家をつぶすつもりでした。

それを阻止したのは広家です。広家は、関ケ原の戦いにおいて家康の勝利に貢献したことで、周防と長門を与えられました。しかし、家禄を没収された輝元にこれを譲りたいと懇願し、毛利家の存続に貢献しました。

自らの大名の地位を捨て、毛利家を守る。まさに「毛利両川」の本領があらわれた一事といえますが、そこには、「毛利本家を支える」という父・元春の思いと律儀さが、子どもにもしっかりと受け継がれていたといえるのではないでしょうか。

プロフィール

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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