
ドラマ等では勇ましい姿で描かれる戦国武将ですが、加賀百万石の礎を築いた前田利家も、江戸幕府を開いた徳川家康も、若い頃には「殺人」や「食い逃げ」など、驚くような失態をやらかしていました。歴史学者・本郷和人氏が、戦国武将たちの「やばい事件」をひも解き、教科書ではわからない彼らの素顔を浮き彫りにします。
※本稿は、本郷和人監修、滝乃みわこ著 『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』、『東大教授がおしえる 超!やばい日本史』(ダイヤモンド社)より一部抜粋・編集したものです。
身長180cm以上もあるイケメンだったといわれている前田利家。若いころは相当ヤンチャで、織田信長とともに不良ファッションで街を練り歩く傾奇者でした。
じつは、ふたりは恋人でもありました。この時代、男性どうしの恋愛はめずらしくなく、信長が家臣団の前で利家についてのろけたという加賀藩の公式記録も残っています。
時がたち、利家はまつと結婚。信長は拾阿弥(じゅうあみ)という茶坊主をかわいがるようになりました。拾阿弥は信長の元恋人にマウントをとりたかったのか、利家にイヤミ攻撃をしかけます。しかもそれではあきたらず、利家がまつにもらった大事な笄(こうがい/髪を整える道具)をぬすんだのです。
とうとう怒った利家は信長に「殿、拾阿弥を斬ってもいいですか!?」とうったえますが、信長は「まあまあ......大目に見てやってよ」と露骨に拾阿弥をえこひいき。
利家もいったんは信長の顔を立てて引き下がったものの、拾阿弥に「返してほしいか? ほれほ~れ」とでもバカにされたのか、やっぱりブチギレて信長の目の前で拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
信長は「もう顔を見せるな!」と利家に激怒。信長にゆるしてもらうまで、利家は浪人同然の貧乏生活を送るはめになったのです。
徳川家康には、若いころに食い逃げをした逸話が残っています。
「三方ケ原の戦い」で武田信玄に負けてしまった家康は、あわてて自分の浜松城に逃げ帰ることになりました。
逃げる途中、つかれて腹ペコだった家康は、あるおばあちゃんのお店で小豆餅を食べたといわれています。
でも、食べている途中に武田軍が追いかけてきたので、お金をはらわずにあわてて逃げてしまったのです。
「おい! 食い逃げしてんじゃねえええ!!」
家康からお金をもらえなかったお店のおばあちゃんはブチギレました。
なんと武田軍よりも速いスピードで疾走し、逃げた家康を追いかけたのです。
そして浜松城に近い場所で家康に追いつき、きっちりお金を徴収。憤怒の形相のターボおばあちゃんにタックルされた家康は、武田軍に追いつかれたと思って死を覚悟したことでしょう。
そのお店があった場所はのちに「小豆餅」、お金を受け取った場所は「銭取」という地名でよばれるようになりました。小豆餅から銭取までの距離は2km以上。
おばあちゃんの元気さとねばり強さ、そしておそろしいほどの執念は現代に語り継がれているのです。
明智光秀は妻を大切にした愛妻家としても有名ですが、妻をめぐって光秀夫婦に大迷惑がふりかかった、こんな逸話があります。
きっかけは、織田信長が家臣たちを集めて始めた「どの武将の奥さんが美人か」というくだらない男同士のトークでした。話が盛り上がるなか、ひとりの家臣が「そりゃあ明智殿の妻の煕子(ひろこ)殿が天下一ですよ」と言いました。
そこで信長は煕子の顔が見たくなり、城内にやってきた煕子のあとをつけて、いきなり後ろから抱きついたのです。おどろいた煕子は、とっさに持っていた扇で信長をボコボコにしました。
相手がおそろしい信長だと知っていればそんなことをするはずもありませんが、煕子は信長の顔を知らなかったのです。
人妻にセクハラをしておいて勝手なものですが、信長は恥をかかされたと怒り、光秀にパワハラをするようになりました。とんだ逆恨みです。
パワハラのストレスからか、光秀は激しい下痢に苦しみます。その看病をしていた煕子も病気で倒れ、なんと死んでしまいました。
ブラック上司に疲れ果て、最愛の妻までも失った光秀は、とうとうキレて本能寺の変を起こしたのかもしれません。
更新:06月23日 00:05