
徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。
本稿では、慶長5年(1600)6月関ヶ原合戦前夜、家康は上坂をしぶる上杉氏の態度を豊臣政権に対する謀反とみなし会津攻めを決意、会津遠征から小山評定に至る経過を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。
※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の内容を、一部抜粋・編集したものです。
6月6日、家康は大坂城に諸将を招集し、会津攻撃に関する会議を開いて部署を定め、上杉領近隣に領地を持つ最上義光や伊達政宗を国元へ戻した。そして16日に大坂城から伏見城へ入り、軍勢を整えて18日に出立した。
この会津遠征は、家康が勝手に仲間を集めて強引に実行されたといわれてきたが、多くの研究者は、遠征は豊臣政権の公的な行動だったとする。
なぜなら家康は、秀頼から正式な許可を得ており、五奉行(3名)の連署状に「すべて内府様の御下知によって行動しなさい。御下知に背いて万一勝手な行動をしたばあいは処罰します」(本多隆成著『人をあるく 徳川家康と関ヶ原の戦い』吉川弘文館)とあり、「豊臣公儀を担う五大老筆頭としての家康に、軍事指揮権が認められた」(前掲書)と考えられるからである。
本多隆成氏は「会津攻めは豊臣公儀による征討だった」(前掲書)ので、従軍大名は黒田長政や細川忠興、藤堂高虎など「家康を支持して進んで従軍した」(前掲書)者だけでなく、「敵の領国に近い義務的な動員というべき」「東海道筋の大名たち」(前掲書)がいたとして、福島正則や山内一豊などを例に挙げ、参加した豊臣系大名に「2つのタイプがあった」(前掲書)と述べる。
一方で、白峰旬氏は『吉川家文書』などを分析し、家康は「上杉景勝に落ち度がある訳ではないので、まわりからは家康に対して景勝と話し合いするよう度々進言した」が、「家康はこの進言を無視して上杉征伐を強引に決定した」「家康は、上杉征伐の決定段階では豊臣政権の幹部クラスや主だった諸将とは一切協議していない」(「小山評定は本当にあったのか?」渡邊大門編『家康伝説の噓』柏書房 所収)と述べており、従来通り、会津征伐は家康の強行だったと考える研究者がいることも指摘しておこう。
家康は、7月2日に江戸に入り、7日、諸大名に対して喧嘩口論や乱暴狼藉の禁止など、15カ条の軍法を発し、21日に江戸を出立して会津へ向け進軍していった。そして24日、下野国小山在陣中に石田三成の挙兵を知ったのである。
そこで翌日、家康は諸将を集めて軍議を開いた。会議の場で家康は、「どちらに味方するかは自由である」と各自に進退を任せた。だが、辺りは水を打ったように静まり返った。人質を大坂城に残してきた者も多く、家康に付いて勝てる保証もないので躊躇したのだとされる。この静寂を破って発言したのが、福島正則だった。
正則は、「我に於てはかゝる時にのぞみ。妻子にひかれ武士の道を踏違ふ事あるべからず。内府(家康)の御ため身命を抛(なげうち)て御味方仕べし」(『徳川実紀』)と明言したのである。
巷説では、正則は石田三成と仲が悪く、彼を憎悪していたので、これは私的な感情から出た言葉だったとされる。しかしこの台詞が、家康の勝利を決定づけたのである。というのは、正則に励まされた諸将が、なだれをうって三成打倒を約し、そのまま反転して西上していったからである。さらに正則の発言のあと、山内一豊が居城の掛川を徳川方に差し出すことを表明したので、いっそう東軍(家康方)の士気は高まった。
正則ら東軍の先鋒隊は、西軍(三成方)の諸城を次々と落とし、関ヶ原の戦いでは主戦力となり、家康を天下人に押し上げた。このため正則は、関ヶ原合戦後、尾張国清須から芸備二国49万8千石へと大加増を受け、一豊も5万石から土佐一国(20万石)の国持大名になった。
ただ、近年の研究では、このあたりの巷説は大きく変化している。
まず、7月11日の段階で石田三成と大谷吉継の謀反(別心)が明らかになると、三奉行(増田長盛、前田玄以、長束正家)は、翌12日付の書簡で家康と五大老の毛利輝元に上洛を求めている。
このため「『別心』の報は早くて19日、遅くとも20日には、家康のもとに届いていた」(藤井讓治著『人物叢書 徳川家康』吉川弘文館)のだ。ところが家康は、「この報を得るも、予告どおり21日に江戸城を発った」(前掲書)という。
このあたりの家康の心境がよくわからない。というのは、25日に小山で軍議を開き、そこでわざわざ会津征伐の中止を決定し、西軍(石田方)を討つため反転を決めているからだ。江戸で確報を得たのなら、その時点で中止の判断ができたはずだ。
この謎に対し、明確な回答を用意しているのが白峰旬氏である。
7月25日の小山評定(軍議)における「こうした有名なエピソードは一次史料(同時代史料)では全く確認できない」(「小山評定は本当にあったのか?」)ことなどから小山評定はなかったと述べる。
その論拠として白峰氏は、家康が周囲の「進言を無視して強引に上杉征伐を決定し」「諸将とは一切協議をしていないのに、なぜ上杉討伐を中止する時だけは諸将と協議をするために評定を開くのか」(前掲書)と疑問を呈し、「上杉討伐の軍事指揮権は終始家康が掌握していた」(前掲書)のだから、「中止すること、については家康の一存で命じればそれで済む話」(前掲書)だという。
さらに、あの決定的な一言を発した福島正則は、7月25日に小山にいなかったというのだ。
白峰氏は、7月19日付け福島正則宛徳川家康書状を分析し、7月19日に「上方における反家康の動向」(前掲書)を察知した家康は、「それに対応するため、福島正則の軍勢の西上を命じ、家康がいる江戸まで来るように命じた」(前掲書)とし、その後、西軍(三成方)が正則の居城清須を奪うかもしれないので清須に向かわせ、「7月中には清須城に帰城したと考えられる」(前掲書)とする。
小山評定は存在せず、福島正則がいないとなると、これまでの通説は完全に変わってしまう。ただ、いっぽうで小山評定を肯定したり、小山ではないかもしれないが、東軍諸将が集まり、意思疎通をはかったとする研究者も多く存在する。
更新:08月08日 00:05