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藤堂高虎の傑作 宇和島城は「五角形」の罠?今治城は城内に港!【名城の謎】

2026年09月16日 公開

真山知幸(伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA))

今治城と藤堂高虎像今治城と藤堂高虎像

「築城の名手」として歴史に名を刻む戦国武将・藤堂高虎。彼が愛媛の地に築いた宇和島城と今治城には、従来の城郭の常識を覆す驚きの仕掛けが施されていました。
一見すると四角形に見え、幕府の隠密さえも見抜けなかった宇和島城の「五角形の縄張」、堀に海水を引き込み、船が海から直接入ることのできる今治城の「船入」――本記事では、築城家・高虎の才能が光る2つの名城の秘密と、今も残るその足跡を解説します。

※本稿は、真山知幸著『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)より一部抜粋・編集したものです。

 

[宇和島城]幕府の隠密をだました五角形の縄張

日本古城絵図 豫州宇和嶋城図(国立国会図書館蔵)日本古城絵図 豫州宇和嶋城図(国立国会図書館蔵)

【◎所在地:愛媛県宇和島市/◎主な城主:藤堂高虎/◎へんな城度:星4つ】

城の縄張り(設計)は、一般的に四角形を基本とする。ところが愛媛県宇和島市にある宇和島城を上空から見ると、外郭がいびつな五角形をしている。

しかもこれは単なる地形の都合ではない。わざといびつな五角形にすることで、敵に四角形の城だと思い込ませようとしたのだ。

この仕掛けを考案したのは、「築城の名手」と呼ばれた藤堂高虎である。文禄4(1595)年に伊予南部の領主となった高虎は、慶長元(1596)年から中世以来の城を大改修し、慶長6(1601)年に新たな城に生まれ変わらせた。のちの宇和島城である。大名として初めて自ら手がけた居城であり、高虎の築城家としての出発点とも言える城だった。

「空角(あきかく)の経始(なわ)」と呼ばれるこの仕組みはこうだ。城を攻める側は、ふつう四角形の縄張を前提として攻め方を考える。

しかし、宇和島城の場合は五角形なので、一辺が完全な死角になる。敵の攻撃はその一辺に集中しにくくなり、守る側には有利だ。さらにこの空角は、物資の搬入口にも、いざとなれば城から脱出する抜け道にもなる。当時の築城術でこれほどのからくりを用いた城は、ほかに例がなかったという。

この設計がどれほど巧みだったかは、ある記録が証明している。徳川幕府が四国の城を調べさせた際、隠密の報告書には、宇和島城は「四方の間、合(あわせて)十四町三反七間」であると記されていた。「四方」とあるため、高虎が意図した通りに、幕府の調査員さえも見事に「四角形」だと、だまされてしまったのである。

宇和島城は海城でもあった。現在は市街地に囲まれた内陸の丘陵に見えるが、築城当時は城の東側に海水を引き込んだ水堀があり、西側の半分が宇和海に直接面していた。山・海・堀が一体となった立地は、難攻不落の要害をつくり出していた。本丸天守からは隠し通路が数本延び、西海岸の舟小屋や隠し水軍の基地へとつながっていたとも伝わる。

慶長20(1615)年、伊達政宗の庶長子(正妻以外から生まれた第一子)・秀宗が10万石で入封し、宇和島伊達家が9代にわたって城主を務めた。現在残る天守は、2代藩主の伊達宗利が寛文6(1666)年頃に建て替えたものだ。「修理」の名目で幕府に届け出ながら、天守台の石垣ごと全面的に建て直したというから、なかなか大胆な工事だった。縄張そのものは高虎のものをほぼ引き継いだため、五角形の仕掛けは今も健在である。

現在の宇和島城の天守は、全国にわずか12棟しかない現存天守の一つであり、国の重要文化財に指定されている。かつての堀は明治以降にすべて埋め立てられてしまったが、五角形の縄張の名残は、城山を取り囲む現在の道路の形に今も読み取ることができる。

幕府の隠密をだました「からくり」は、形を変えながら、400年以上を経た現代の街並みにひっそりと刻まれている。

 

[今治城]城中から直接船が出入りする海の城

【◎所在地:愛媛県今治市/◎主な城主:松平定房/◎へんな城度:星3つ】

今治城は愛媛県今治市に位置する、日本でも珍しい「城内に港を持つ城」だ。海水が引き込まれて、魚が泳ぎ、潮の満ち引きで水位が変わる。

手がけたのは、築城の名手・藤堂高虎。郡山城、宇和島城、大坂城、江戸城、二条城などで築城や普請(工事)を行っている。

高虎は浅井長政、豊臣秀長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、そして徳川家康とさまざまな主君に仕えながら、出世を重ねた。関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を拝領すると、慶長7(1602)年、この地に城を築き始める。

かつては、唐子山山頂にある国府城に今治の拠点が置かれたが、瀬戸内海交通の要衝である来島海峡を押さえながら城下町を展開するには、瀬戸内海に面した海岸が適していると考えたようだ。政治・経済の拠点にするべく、慶長13(1608)年頃に今治城が完成したとみられている。築城に際して「今張」の「張」を「治」にして、「今治」に改めている。「治める」という意味を込めたのだろう。統治に意気込む高虎の息遣いが伝わってくる。

今治城最大の特徴は、三重の堀に海水を引き入れた構造である。堀の北隅に石垣が四角く口を開けた水路があり、そこから海水が出入りする。潮の満ち引きによって水位が変わり、堀にはチヌ・マダイ・フグをはじめ、ボラやスズキ、ヒラメ、ナマコなども泳いでいる。

当時は海から堀へ直接船で入り、船が停泊できるほどの池(船入)が敷地内にあった。この船入は国内最大級の規模を誇った。現在の今治港は、城内の中堀の端につくられた城内港の跡に造られたものである。

今治城の縄張は、正方形を基本とした四角形のシンプルな構造。直線的な城壁で囲まれた三重の曲輪、主要な虎口(入口)には枡形門、高石垣には多聞櫓などを配置している。また、砂地という軟弱な地盤に高石垣を築くため、石垣と堀の間に「犬走(通路)」を設けることで、脆弱な地盤を安定させた。

さらに、従来の望楼型天守は構造が複雑で建設に時間がかかったが、今治城では各階を規則的に積み上げていく「層塔(そうとう)型」を採用。部材を規格化することで、工期を短縮し移築を容易にするなど、工夫が随所に見られるあたりに、高虎の手腕を感じさせる。

高虎が今治城で考案した二重構えの門と多門櫓による「枡形虎口」と、「層塔型天守」はその後、さまざまな城で取り入れられることになる。

慶長13(1608)年、高虎は伊勢国津城に移封となるが、今治領2万石は飛び地として残ったため、養子の高吉が居城としている。寛永12(1635)年、高吉が伊勢に移ると、松平(久松)定房が入城。以降、明治を迎えるまで久松松平家が治めることとなった。

明治維新後、廃城令和施行前の明治2(1869)年に廃城となり、ほとんどの建築物が破却されたが、昭和55(1980)年に5重6階の模擬天守が鉄筋コンクリートで建てられた。その後も天守閣・多聞櫓・武具櫓・御金櫓・山里櫓・鉄(くろがね)御門などの再建が進められている。

現在も町の中に今治城の名残を見ることができる。今治商店街の「ドンドビ交差点」には「どんどびの由来」を記す石碑があり、「呑吐樋(どんどび)」という水の出入りを調整する装置があったことが記されている。「水を飲んだり吐いたりするように見える」ことから、その名がついたらしい。

堀に海水を引き込み、城内に港を設ける――。そんな突飛な発想が生んだ奇妙な城は「日本三大水城」の一つに数えられ、高虎の最高傑作とも評されることとなった。

プロフィール

真山知幸(まやま・ともゆき)

伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部卒業。京都芸術大学大学院芸術研究科(通信教育)文化遺産領域文化遺産分野を修了。業界誌出版社の編集長を経て、2020年に独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆活動を行い、メディア出演や講演も多数。

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