2026年09月07日 公開

日露戦争で大国ロシアを下し、ついに「欧米列強の仲間入り」を果たした日本。しかしその勝利の裏で、日本は国際社会から急速に警戒され、孤立への道を歩み始めていました。なぜ親日的だったアメリカや同盟国のイギリスまでもが、日本を煙たがるようになったのか? 人気講師の伊藤賀一氏が、日露戦争後こそが日本のターニングポイントだった理由を解説します。
※本稿は、伊藤賀一著『史上最強にわかりやすくて面白い ぶっ続け日本史講義10時間』(WORDS/フォレスト出版)より一部抜粋・編集したものです。
日露戦争において、国力が日本の10倍はあるといわれていたロシアとぶつかった日本は、第1ラウンドで、なんとかロシアから2回ダウンを奪いました。1回目は奉天会戦、2回目は日本海海戦です。
その状況で活躍したのが、金子堅太郎という日本の高官です。彼はアメリカ大統領のセオドア・ローズヴェルトのところに行って「根回し」をしたんです。金子はハーバード大学に留学時、ローズヴェルトと面識があったんですよね。慶應でいうと三田会、早稲田でいうと稲門(とうもん)会みたいな感じです。ハーバードの「学閥」を利用したわけですね。
それでセオドア・ローズヴェルトがいいタイミングで「やめろよ!」と日本とロシアの間に入ってくれた。レフェリーをやってくれたわけです。そのおかげで、日本にとっていちばんいいタイミングで戦争が終わりました。
日本も当時は、それ以上戦争を長引かせるのは無理だったわけですよ。長期戦は無理。だって、当時の国家予算は2億5000万ですよ。なのに、戦争予算に18億も用意してたんです。そしてそのうちの15億を、第1ラウンドで使ってしまっていました。しかもその18億だって、日本銀行副総裁の高橋是清が走り回って、アメリカ、イギリス、そしてユダヤ人のシフにも国債を買ってもらい、かろうじて集めたものでした。だから日本はもう、これ以上もたないわけです。
そこでローズヴェルトに根回しをしたわけですね。
セオドア・ローズヴェルトは親日的でした。新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』を読んで、感激して親戚一同に買わせたりするくらいの人です。それもあって、彼がうまいこと間に入ってくれて、いい感じのタイミングで戦争が終わりました。
あと、このときはロシアも早く戦争をやめたかったんですよね。なぜかというと「第一次ロシア革命」が起きてる最中で、国内がグチャグチャと混乱していたからです。ロシアにとっても、アメリカの仲裁は「ありがてえ」という感じでした。
それで結ばれたのが「ポーツマス条約」という講和条約です。
日本が欧米列強に入門する戦いは、世界中が注目していました。そしてレフェリーとしてアメリカが日露戦争をうまく裁いた。のちにセオドア・ローズヴェルト大統領はノーベル平和賞を受賞することになりました。
このポーツマス条約で、日本は新たな植民地をもらいます。北緯50度以南の樺太、すなわち「南樺太」と呼ばれる地域です。
それから遼東半島南部の旅順、大連のあたりも得ます。これは日清戦争でもらうはずだった土地の、先っちょの半分だけですけど。この旅順、大連はのちに「関東州」と呼ばれる地域になります。ここは正確にいうと「植民地」じゃなくて「占領地」なんですが。
とにかく、こうして新たに領土を獲得した日本は、名実ともに「欧米列強の一員と言っていいだろう」という帝国主義国家になっていきます。日英同盟を結んだときに、名目上は列強の一員になってるんですけど。でも今回、世界No.2のロシアから第1ラウンドで2回ダウンを奪ってるわけですから、これでもう完全に仲間入りです。世界中がビックリしたという感じでした。
ここはすごく大事なポイントなんですが、こうなってくると、白人たちは日本を脅威に感じてくるわけですね。
白人からすると、当時の日本は「半文明国」であり「半人間」でした。だから日清戦争の「アジアNo.1決定戦」なんかは、彼らも面白がって見ていたわけです。日本が"眠れる獅子"清に楽勝だった。ところが、いざロシアにまで勝ってしまうと、みんなイヤになってくるんですよ。「調子に乗ってんな」「いけ好かねえな」って言われるようになっていきます。
それを象徴するのが、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が出した「黄禍(こうか)論」です。
「このままイエローをのさばらせておくと、ホワイトである我らの災いになるだろう」という内容ですね。白人の多くは深層心理でそう思っていたので、この「黄禍論」はすごく反響があったんです。
それまでは日本に対してけっこう優しかったはずのアメリカも、西海岸で日本人の移民をいじめたりするようになります。「サンフランシスコ学童排斥事件」といって、何の罪もない子どもたちがいじめられたりするんです。「公立学校にお前らは入ってくるな」とか「アメリカへの移民はもうやめてもらっていいかな?」みたいな。
それで、日本からの移民は、ブラジルやペルーに行くようになるんですね。
これは同盟を結んでるイギリスも同じです。最初は面白がって日本と同盟を結んでいたわけです。日英同盟は、途中で第二次日英同盟協約に改定されて「攻守同盟」になってはいたんですけど。そのあたりで「いや、日本とそこまでの関係になっていいのかな?」とイギリスも思うようになる。「ちょっとうざくない?」「日本、イキってるんじゃないか」「自分の紹介で白人クラブに入ったのに、なんでそのパーティの主役みたいになっての?」みたいな。
同盟を結んでくれていたイギリスすら、そういうムードになっていくんですよね。
ここからポイントになってくるのは、アメリカとの関係性です。
日英同盟を結び、日本はイギリスに紹介されるかたちで白人クラブに入りました。日露戦争でロシアをぶん殴りました。そうなると、アメリカがどう思うかが問題です。アメリカは日本に対して、西海岸に「もう来るな」と言い出しました。さっきも話したように、アメリカは日本のことを「気に入らない」と露骨に言うようになったわけですね。
ただ、アメリカがそう言うようになったことにも、いちおう理由はあるんです。
ポーツマス条約で、アメリカは日本とロシアの間に割って入ってやったわけです。それで戦争を終えることができた。だから日本は、本来ならアメリカにお礼をしないといけないわけです。それも「ありがとうございました」と口だけじゃなくて、何か形のあるお礼をするのが礼儀です。
で、アメリカが何をしてほしかったのかというと、中国市場を開けてほしかったんです。
当時はロシア、イギリス、フランス、ドイツとか、いろんな国が中国に進出してました。日本もそうです。でも、アメリカだけ進出してなかったんですね。本当はアメリカだって、中国に進出したいわけですよ。だから日露戦争を仲裁したんです。仲裁をすれば、日本やロシアからのお礼として、中国東北部満洲の市場を開放してくれるだろう、と。そう思っていた。
ところが、ですよ。日本とロシアは戦った後になぜか「男の友情」的なものが芽生えてしまった。よくわからないですが、戦争の後に仲良くなるんです。仲良くなって「中国東北部のマーケットは俺らで独占して、アメリカのことは絶対に入れてやらない」と言い出した。
それが、1907年の「(第一次)日露協約」です。日本とロシアが仲良くなってしまい「南満洲は日本、北満洲はロシアがもらう」などと言うようになる。内蒙古、いまでいう中国の内モンゴル自治区は日本。外蒙古、いまのモンゴルはロシアの領土、みたいな。そうやって日本とロシアは仲良くなってしまいました。
それを見て、アメリカが激怒したわけです。
同時に、この日露協約はイギリスの反感も買いました。
日本に対して「お前、誰の紹介でこの白人クラブに入ったの?」と思うわけです。国際社会は一夫多妻制みたいなものですから、誰とどんな条約を結ぼうが本来はかまわないはずなんですけど。「イギリスと同盟を結んでいたら、ロシアとは同盟を結んじゃいけない」みたいなルールはないので。とはいえ天下の大英帝国からすると、思いっきり目線を下げて「日本と同盟を結んでやっている」つもりなんです。それなのに、ロシアとも同盟を結ぶとなると「なんやねん」とやっぱり思うわけですよ。
たとえば僕はいま、ありがたいことに佐藤優さんと共著を出させてもらっているわけですけど。これでもし、僕がこっそり黙って池上彰さんと共著の準備をしていたら、違和感ありません? もちろん、そんなことしてないですけど。別に僕が池上さんと共著を出したって、ルール上はいいんですよ。でも普通に考えたらそれはできないです。共著の相手は次も「佐藤先生、お願いします」というのが礼儀です。
それと同じことで、日本は明らかに格上のイギリスに対して「操を立てなかった」わけ。それで「なんなの?」とイギリスからの反感を買うことになります。
日本は日清戦争と日露戦争で連勝することによって、条約改正を達成できました。不平等条約を改正して、欧米列強に入ることはできた。その過程で1910年に日韓併合条約を結び、朝鮮半島を植民地化しています。台湾・澎湖諸島、南樺太、朝鮮。これだけの植民地を得て、欧米列強の一員として帝国主義国家になっているんです。
でも「どうも気に入らねえな」と思われてる。アメリカとイギリスに嫌われて。一方で、このあいだ戦ったばかりのロシアとは仲良くしてるわけです。
こうなると、日本は微妙な立場になってきます。ここでどう振る舞うか、軌道修正するか、というのが本当なら大事だったわけですね。
ところがこの微妙な状況から、日本はさらに調子に乗ってしまいます。それが第一次世界大戦です。
対岸の火事、ヨーロッパで戦争が起きたとき、同盟を結んでいるイギリスを助けてあげるなり、ロシアの動きをサポートしてやるなり、うまいことやればよかったはずです。でも、そんなことはまったくせずに、日本は勝手に中国に進出したり、シベリアに出兵したりしたんです。しかも、そこから撤退しなかったりするものですから「火事場泥棒」の扱いをされてしまうわけです。
日本の近代における大きなターニングポイントの1つは、おそらくここです。
司馬遼太郎さん的に言うと、ここで『坂の上の雲』まで行きました。坂を上がっていって「やった! 日本も世界の一流国だ」となるところまで行った。でも実は、ここからの態度が大事だったんです。
更新:09月07日 00:05