
明治維新の「三傑」のひとりとして、近代日本の礎を築いた大久保利通。彼は明治11年5月、白昼堂々6人の刺客によって惨殺されてしまいました。実はこの事件、事前に忠告があり、殺害予告も届いていたため、「防げたはずの事件」だったのです。なぜ大久保は警備もつけず、丸腰同然で出勤してしまったのでしょうか。 岩倉具視の警告や殺害予告を「笑ってスルー」した背景と、警察トップの油断、そして日本にとってあまりにも大きすぎた損失の真相に迫ります。
※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)より一部抜粋・編集したものです。
大久保利通は、西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新三傑といわれ、明治維新最大の功労者とされた。岩倉使節団に加わって欧米を見た後は、殖産興業による富国強兵を第一と考え、征韓論をとなえる盟友の西郷と対立、これを下野させた。
以後、内務省という巨大な組織を立ち上げると、そのトップに立って己に権力を集め、日本の近代化に邁進していった。
大久保は、薩摩出身であるにもかかわらず、同郷人をえこひいきせず、有能な人材を抜擢していった。大久保の偉さは、藩閥や血統にこだわらず、国家を担うべき人材を各所から集め、これを育てたことにある。
「人はいないか」が大久保の口癖になっていて、実際、彼が長官をしていた大蔵省や内務省には、しがらみを超えた英才たちが集まり、大久保の薫陶を受けて、国家を背負って立つ政治家や官僚、実業家へと成長していった。
だが、そんな大久保は、明治11年(1878)5月14日、あっけなく暗殺される。この日は、朝から湿気を含んだ冷たい北風が吹いていた。大久保は、早朝に自宅に訪ねてきた福島県令(県知事)山吉盛典に熱弁をふるっていた。無口な大久保にしてはめずらしく、帰ろうとした山吉を引き留めてまで話を続けた。
そして「日本を近代国家にするためには、30年の歳月が必要だと思っている。これまでの10年は戦乱の連続だった。これを第一期、すなわち創業の時期とすれば、これからの10年は第二期である。ここで国内制度を整え産業を育成し、富国強兵を達成したい。第三期はこの政策を続け、国家を完成させる時期。私は不肖ながら第二期を担い、第三期は後輩たちに任せようと考えている」と力説した。
前年、西南戦争という最大の不平士族の乱を平らげ、近代国家づくりに意欲を燃やしていたのだろう。だが、運命は皮肉である。天は大久保が第二期を担うことを許さず、このわずか数十分後にその命を奪った。
山吉が帰ってからすぐ、大久保は2頭立ての馬車に乗り、赤坂仮御所へと向かった。連れは、馬丁(ばてい)の芳松と馭者(ぎょしゃ)の中村太郎の2人だけ。
大久保の屋敷は、当時の三年町3番地にあり、屋敷を出た馬車は紀尾井町を抜ける道を使っていた。当時の紀尾井坂は、片方に桑畑が広がり、もう一方に夏草が茂る高台の細道だった。
いつものように、馬車が細道に入ると、行く手に2人の若い男が花を持ってたわむれていた。馬車に気づくと、男たちはこちらに向かって歩いてきた。
馭者の中村は馬車をとめ、馬丁の芳松が利通の隣から降り、脇によって道をあけるよう注意した。とたん、男たちは急に刀や短刀を取り出し、馬の前足を薙いだのだ。馬は膝を折って激しく嘶(いなな)いた。
この襲撃を合図に、身を潜めていた4人の男たちが一斉に飛び出してきた。刺客は全部で6人。彼らはたちまち馬車に殺到。芳松は背中から刺客に斬りつけられたが、それをかわして助けを呼びに走った。馭者の中村は馬車から飛び降りたところを斬り殺された。大久保は書類に目を通していたが、刺客はいきなり斬りつけてきた。大久保は「待て!」と制止したが、かまわず刺客たちは馬車から引きずり降ろそうとした。
が、大久保は「無礼者!」と叫んで抵抗したので、1人が短刀で眉間から目にかけて斬り、別の1人が腰を深々と刺した。さらに、動きが鈍った大久保の頭部に何度も刃をふるった。
大久保は馬車から転げ落ちたが、驚いたことに立ち上がって数歩ヨロヨロと歩いた。刺客たちは、瀕死の重傷を負った大久保を、その後も執拗に斬り、倒れた大久保の首に短刀を刺し貫いてとどめをさした。
馬丁・芳松の知らせに、政府の役人や警官がかけつけたが、現場は血や肉が飛び散り、凄惨な状況だった。遺体には16カ所もの傷があり、その多くが頭部に集中していたため、頭はすでに人の形をしていなかった。
いち早く現場に駆けつけた宮内省の香川敬三が、遺体を毛布に包んで自分の馬車に乗せ、西郷従道とともに利通の自宅に届けたという。
現場に駆けつけた1人に、郵便制度をつくった前島密がいる。彼は、大久保の頭蓋骨が割れて、なかの脳味噌がピクピクと微動しているのを見て驚愕した。その光景に驚いたのではない。大久保の夢が現実になったことに驚いたのだ。
数日前、前島が大久保に会ったとき、「じつは嫌な夢を見たよ。自分の頭が割れて、脳が動いているんだ」と語っていたのだ。そのとおりの光景が、いま前島の前に展開していた。つまり、大久保は正夢を見たのである。
まもなく犯人が出頭した。石川県士族の島田一郎、長連豪(ちょうつらひで)、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、島根県士族の浅井寿篤の6名だった。主犯格は島田と長の2人である。
彼らは赤坂仮御所の宮門に現れ、守衛に向かい「いま俺たちは大久保利通を殺害した。よろしく処置をしてくれ」と言って、斬奸状(ざんかんじょう)を差し出した。
そこには、藩閥政治家による独裁や汚職に対する不満、外交政策の批判、民権運動の弾圧政策への怒り、西郷を自害に追い込んだことへの抗議などが、長々と書きこまれていた。その巨悪の根元が、大久保利通であると断定、まずこれを除いたと記されてあった。すなわち、民権思想を信奉する不平士族による犯行だった。
だがこの凶行は、確実に防ぐことができた事件だったのである。
大久保は、事前に自分が狙われていることを知っていた。すでに危害を加えようとする者たちがいるとの風評が流れており、伊藤博文や岩倉具視も大いに憂え、大久保に手紙を送って身辺警護を強化するように注意を促したほどだった。
じつは明治7年(1874)、岩倉具視は赤坂喰違(くいちがい)坂で刺客(不平士族)9人に襲われ、濠に転落したことで九死に一生を得ていたので、ことさら大久保を心配した。
さらに、である。石川県令の桐山純孝(じゅんこう)が、本県の士族に怪しい動きがあることを、電報で内務省に伝えていた。このため、内務官僚の千坂高雅や松平正直らが大いに危惧し、警察を統轄する大警視・川路利良に警備の強化を依頼していた。
一説には、刺客の島田らは利通に「あなたを暗殺します」という殺害予告書を送りつけていたともいわれる。
島田らは、自分たちの行為は個人的な遺恨ではなく、天下国家のためだと信じていたので、前ぶれもせずに殺害し、卑怯なふるまいだと世間にそしられたくなかったのだ。実際、彼らは犯行直後、仲間を通じて斬奸状を新聞社に郵送した。
だが、殺害予告書を受けとった大久保は「こんな馬鹿なものが来た」といって、笑っていたという。つまり、大久保自身もただの脅しとしか思わず、本気にしなかったのだ。これはもう、うかつとしかいいようがない。もし、しっかり警戒して警固の者をつけていたなら、この暗殺は確実に未遂に終わっていたはずだ。
大久保は、明治政府のトップである。江戸時代でいえば、老中や大老だ。井伊直弼でさえ家臣60名を連れていても暗殺されているのに、全く警備の者をつけず、馬車1台で出勤するというのは驚くべき呑気さである。
一方、刺客の島田ら6人は上京すると、旅館に滞在し徹底的に大久保の日常動向を探った。何曜日の何時にどこに行くのかを、数週間にわたり執拗に追い続けた。また絶対に大久保の顔を見間違えないよう、その特徴を頭に叩き込んだ。一説には200メートル先の人混みの中からでも、大久保を見分けられるようになったという。
いずれにせよ、大久保が嫌がっても、警察がしっかり警備をつけていたら、状況は変わっただろう。そういった意味では、大警視・川路利良の責任は大きい。川路は「石川県士族に何ができるか」と、石川県令からの通報を無視していたからだ。
石川県(旧加賀藩)は百万石の大藩であったにもかかわらず、時勢にうとく、ほとんど何も成すことなく維新を迎え、廃藩置県においても政府の命令に黙々と従った。
不平士族も多かったが、乱を起こすわけでもなく、西南戦争への呼応者も現れなかった。だからまさか、政府トップの暗殺といった大胆な行動がとれるとは予想しなかったのである。
大久保暗殺後、大久保の部下・千坂高雅などは悲憤の念にたえず「大久保内務卿は島田ら不平士族に殺されたが、ある意味では彼らをして内務卿を殺させたのは川路だ」と放言したという。
川路にとっても大久保は大恩人だったので、さすがにショックを覚え、以後、参議などの政府の閣僚級の人間については、騎兵を護衛としてつけるようになった。
大久保の死により、明治政府は打撃を受けたものの、すでに不平士族の乱は西南戦争で撲滅され、富国強兵という国家の進むべき道もでき上がっていた。
とはいえ、もし大久保政権が続いていれば、この3年後に起きる明治十四年の政変のような政府内での混乱は起きなかったろうし、日本の近代化はもっとスムーズに達成できた可能性は否めない。
同年7月27日、島田ら6名に死刑が宣告され、即日、刑は執行された。これに先立つ5月17日、明治天皇は大久保利通に対し、次のような追悼の詔を賜わった。
「剛毅撓(たゆ)まず、外に殊勲を樹(た)て、英明善く断じ、内に偉功を奏す。まことにこれ股肱(ここう)の良、実に柱石の臣たり。ここに溘亡(こうぼう)を聞く、いずくんぞ痛悼(つうとう)に勝らんや」
いかにその死を残念に思っているかがよくわかるだろう。
大久保の暗殺は「ロンドンタイムズ」でも報じられた。
「昨日は日本の首相大久保氏が参朝の途上、六名の刺客に暗殺されりと聞けり、氏は日本維新の業に与りて力あり、殊に平生改進を主張して旧弊を洗除し、又客歳の内乱を鎮定せし功臣の一人なれば、其旧習家の憎みを受くること甚しく、封建党は皆その旧敵の首長を斃すは、氏を殺すにありと思へり(略)大久保氏は一八七三年欧州に来れり、其豪邁正直にして、度量の大なる、見識の高き、今に至るまで人猶其風采を追想せざるものなし、氏の死は日本全国の不幸と謂ふへし」(勝田孫彌著『大久保利通伝 下巻』同文館/明治44年)
このように大久保利通という政治家は、海外でも高く評価されていたのである。
本人も周囲も危険を察知できず、みすみす殺されてしまったことは、かえすがえすも日本のために惜しいといえる。
更新:09月11日 00:05