
徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。
本稿では、関ヶ原合戦にまつわる「問鉄砲」をはじめとする諸説を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。
※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の内容を、一部抜粋・編集したものです。
合戦の火蓋を切ったのは、東軍の井伊直政である。直政は、徳川四天王と呼ばれた家康の側近中の側近。天正3年(1575)より家康に臣従した新参者だが、華々しい戦功を立て続けにあげて大身に成り上がった。
合戦での先手一番は、福島正則と決められていた。さらに藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政といった豊臣系大名が最前列に並んでいた。その一群に唯一加わっていた徳川直臣が、井伊直政だった。
東西両軍が布陣を終えたのは、9月15日午前6時から7時の間だったと思われる。すでに雨はやんだが、深い霧が立ちこめていたという。両軍は、対陣したままにらみ合っている。そんななか、福島正則隊の脇を真っ赤な甲冑を身につけた50ほどの騎馬隊がすり抜けようとした。言うまでもなく、井伊直政勢である。
これを見とがめた福島隊の猛将・可児才蔵は「今日の先陣は我々。ここから先は通すわけにはいかない」と怒鳴った。対して直政は「ここに居られるのは松平忠吉(家康の四男)様だ。今日が初陣なので、合戦を学んでいただくため、ともに斥候に来た」。そう答えて、するすると福島隊の前に出、そのまま先へ進んでいった。その直後に、合戦が勃発したのだ。
驚くべきことに、直政らは対峙する宇喜多秀家1万7千へ突撃を敢行したのである。
家康は、同年7月に会津征伐へ赴くおり、「たとえ軍で功名しても軍法に背く者は成敗する」と抜け駆けを厳禁していた。つまり、明らかに直政の行為は抜け駆けだった。
しかし戦後、福島正則からは苦情が出なかった。正則は、こうしたことには非常にうるさい男で、関ヶ原の前哨戦では、池田輝政の違法行為に激怒して一触即発の状態になっている。そんな正則が文句を言わなかったのは、直政の行為を抜け駆けと認識していなかったからにほかならない。
直政は3千を率いていたが、本隊は置いたまま物見と称して、わずか50騎しか連れていなかった。この人数の少なさが、正則をして抜け駆けではないと判断させたのだろう。もしかしたら直政は、濃い霧を理由に、偶発的に敵と遭遇し、やむを得ず戦闘行為に至ったと弁明したのかもしれない。
いずれにしても、家康の息子と直臣が天下分け目の合戦で一番槍を入れたというのは、徳川方にとって大いに面目を施したわけで、家康は上機嫌だったといわれる。ちなみに直政は、この合戦で受けた傷から敗血症にかかり、1年半後に死去した。
なお、家康の政治工作や家康に味方した黒田長政の離間工作が功を奏し、西軍大名の多くが戦いに参加せず、西軍8万(諸説あり)のうち戦闘に参加したのは半数以下だった。
南宮山に布陣した毛利軍1万6千も傍観した部隊の一つだ。だが、毛利輝元は西軍の総大将だったが、関ヶ原合戦当日は大坂城におり、毛利軍を率いていたのは輝元の養子秀元だった。実は秀元は、戦いに参加しようとしたのだが、先陣の吉川広家(輝元の従弟)が、いくら催促しても動かなかったのである。
当然、石田三成からは至急援来せよとの矢のような催促が来る。閉口した秀元は「いま兵に飯を食わせている最中だ」と三成の使者に苦しい弁明をしたという。もちろん後の作話だろうが...。
なお、近くに陣を敷いた長束正家や長宗我部盛親も、秀元の言動に疑心暗鬼となって動かなかった。ために、南宮山にある3万以上の兵が、用をなさなかった。
広家が出撃しなかったのは、家康に内通していたからである。
広家は安国寺恵瓊から、三成が輝元を大将に担いで挙兵することを知り、輝元に同意しないよう伝えるつもりだったが、輝元はもう大坂へ出向いてしまった。
そこで広家は、親しい黒田長政を通じ、家康に「これは恵瓊の謀略であり、輝元は関知していない」と釈明、その後は徳川方と連絡を保ちながら主家と行動を共にし、関ヶ原合戦の前日になっていきなり主将の秀元や毛利家の重臣たちに事実を打ち明けたのである。
軍議の結果、輝元の許可なく家康方に人質を出し、「毛利氏の忠節が明らかになれば、家康様は本領を安堵する」という血判付きの起請文を徳川方から獲得。こうして広家は、一兵たりとも参戦させないという行動で家康に忠節を示したのだ。
ただ、少数ながら西軍はすさまじい戦いぶりを見せ、戦線は膠着状態になった。もし傍観している西軍諸将が東軍に攻撃を仕掛けてきたら、絶体絶命である。
そこで裏切りを約束していたのに動かない松尾山の小早川秀秋に対し、気を揉もんだ家康は「せがれ(秀秋)めに計られた(だまされたか)」(『朝野旧聞裒藁』)と怒り、松尾山に鉄砲を撃ち込むよう命じた。
俗にいう問鉄砲である。
このため秀秋は松尾山を駆け下り、眼下の大谷吉継の陣へ攻め入り、つられて赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治も味方に攻めかかり、大谷隊が壊滅したのを機に、西軍は瓦解したのである。
以上がこれまで言われてきた関ヶ原合戦の経緯である。
が、近年、多くの研究者が一次史料にもとづいて新たな解釈をおこない、通説が大きく揺らいでいる。
意外なのは、合戦の勝敗を決めた小早川秀秋の裏切りだが、黒田基樹氏(『シリーズ 実像に迫る005 小早川秀秋』戒光祥出版)は、8月28日に秀秋のもとに東軍への寝返りをうながす書状が送られているので8月後半から家康の調略が始まっていたと推測し、9月14日に家康から起請文が出されているので、この段階で秀秋は「大坂方から江戸方に転じる意向があった」(前掲書)と論じる。
また、吉川広家が合戦の2日後に出した「書状案」などを分析。結果、三成は、秀秋の裏切りがはっきりしたので、関ヶ原の山中(地名)に陣取っている大谷吉継が危険になったため、これを守るため関ヶ原に移動してきたという。
さらに、合戦中に「決断をうながすために、家康が秀秋の陣に向けて問鉄砲をおこなった」のも「すべて後世の創作」で、「当時の史料からは、開戦とほぼ同時に、秀秋は江戸方の立場をとって、大坂方を攻撃したことが明らか」(前掲書)と論じる。
さらに乃至政彦・高橋陽介著『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』(河出書房新社)では、秀秋はもっと早くに東軍に転じており、石田三成も9月12日の時点でこの事実を認識し、「秀秋の裏切りを知った三成は、秀家・小西行長・惟新(島津義弘・引用者注)の諸隊を率いて、秀秋を討つべく、雨の降るなか、山中方面へ向かった」(前掲書)というのだ。
通説では家康が偽情報を流し三成らを大垣城から誘い出し、関ヶ原におびき寄せたことになっているので、その説が根本的に崩れるわけだ。
ただ、秀秋の行動が西軍を壊滅に追い込んだのは確かで、この功績により秀秋は備前・美作二国、50万石を与えられ岡山城主となった。
更新:08月16日 00:05