
戦国最強と謳われた武田騎馬軍団。長篠の戦いでは、いち早く鉄砲を導入した織田軍に対し、旧来の戦い方にこだわったために敗北した、というイメージを持っている方も多いだろう。しかし実は、信玄自身は誰よりも早く「鉄砲」の有用性に着目していた。では、なぜ長篠の戦いで織田軍に敗れることになったのか。そこには武田領が抱えていた内陸国ゆえの「致命的なハンディ」があった。本記事では、信玄が実子をも犠牲にして戦った「経済戦」の真相に迫る。
※本稿は、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)より一部抜粋・編集したものです。
最盛期には甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、三河(愛知県東部)、上野(群馬県)に100万石近い版図を持っていた戦国時代を代表する大名である武田信玄。
武田家は、そもそも甲斐の守護家であり、甲斐源氏の統領という地位にあった。守護大名の家臣から成り上がった信長の織田家や、守護代に過ぎなかった上杉謙信と違い、スタートラインにおいてかなり有利な立場だった。にもかかわらず、信玄は謙信との対決には手こずり、信長には大きく出遅れてしまった。
その最大の要因は、経済力であろう。信玄の出発点である甲斐武田領には、経済的に大きな不安要素が二つあった。一つは「農地」としての貧弱さ。甲斐は水害も多く、豊穣とは言い難かった。もう一つは、武田領が「陸の孤島」だったということである。
信玄の(当初の)領地は山間部であり、海に面していないので、交易や商業はあまり栄えていなかった。
他国から生活に必要な物資を輸入するとき、船舶などで直接搬入できず、必ず陸路を通らなければならない。だから周辺の大名と敵対すれば、物資の流通を止められてしまう。
信玄は、この二つのハンディを抱えていたため、なかなか経済成長ができなかった。
当時の戦国大名たちは、交戦相手や仮想敵国の国力を弱めるために、経済封鎖をよく行った。自国領から、敵国への物流を制限するのである。そのハンディが如実に表れたのが「鉄砲」だった。
武田軍は、鉄砲を効果的に使っていたという証拠は少なく、また信玄亡き後の長篠の戦いでは、信長軍の圧倒的な鉄砲攻撃によって壊滅的な打撃を受けた。
そのため、鉄砲を採り入れた先見的な信長に対して、旧来の戦い方にこだわった信玄というイメージがある。しかし、信玄は決して鉄砲を軽んじていたわけではない。むしろ、ほかの武将に先駆けて鉄砲を導入しようとしていたのだ。
『甲陽軍鑑』には、天文17(1548)年、信玄と信濃の村上義清が上田原で戦った際に「信玄軍は50人の足軽に鉄砲を持たせていた」と記されている。
天文17年というと、信長はまだ14歳であり、家督も相続していない。信玄はそのとき、すでに戦場に鉄砲を持ち込んでいるのだ。種子島に南蛮船がたどりつき、鉄砲がもたらされたのが天文12(1543)年なので、それからわずか5年後である。
鉄砲が日本に到来してわずか5年後に、戦場で使用していたとなると、信憑性を疑われるかもしれない。ただ、これにはちょっとした経緯がある。
一般に、鉄砲は種子島からもたらされたと思われているが、実はそれ以前に、中国・朝鮮経由で永正7(1510)年に銅製の火縄銃がもたらされているのだ。そこから換算すれば40年近くが経っていることになり、そう不自然なことではない。
また信玄は、弘治元(1555)年の第二次川中島の戦いにおいても、300挺の鉄砲を投入している(甲陽軍鑑)。信玄は鉄砲の導入に非常に積極的だったのである。
では、なぜ信玄は、信長ほど鉄砲を大々的に効果的に使わなかったのか?
使いたくても使えなかったのである。本当は鉄砲が欲しくて仕方がなかったが、経済封鎖によって、鉄砲や弾薬などの調達が絶望的に難しかったのだ。
もともと流通にハンディを抱えていた信玄に、後年、さらなる不利な状況が生まれてしまった。信長が、近畿の主な港を制圧し、物流ルートを押さえたのである。
永禄11(1568)年、信長は将軍・足利義昭を警護して上洛したとき、堺、大津、草津に代官を置く許可を得た。信長が堺と大津、草津を押さえたことは、実は東国の大名にとって非常に大きな意味を持つものだった。「西日本から東国への交易ルートを信長に完全に押さえられた」ということである。
西日本から東国への交易ルートは、当時、主に二つあった。伊勢湾から海で入るルートと、琵琶湖を上って日本海側から入るルートである。
信長は、すでに尾張(愛知県西部)、美濃(岐阜県南部)を平定していたが、その時点で伊勢湾はほぼ押さえている。さらに上洛後に草津、大津を手に入れたわけだ。
草津、大津というのは、琵琶湖に沿った地域である。大津は京都から琵琶湖への玄関口であり、草津は京都から北陸へ行くときの通過点である。この二つを押さえれば、日本海側のルートも押さえられたことになる。
しかも、海外や西日本の物産が集積する堺をも押さえている。堺は瀬戸内海に通じる海路であり、当時、日本最大の国際港であった。つまり信長は、日本の物流の主なルートを掌握したことになったのだ。
これが、武田方にとってどういう影響が出るかは、火を見るより明らかだ。鉄砲や硝煙(弾薬の材料となる)、鉄などの重要な軍需物資は、途端に入りにくくなる。山国で、もともと物資が入りにくい上に、元栓まで締められたという感じである。
信長が堺の鉄砲製造業者をほぼ丸抱えしていたので、ほかの大名が鉄砲を入手しにくくなったのは間違いない。たとえば、長篠の戦いの少し前ごろ、信玄の甥で、武田軍の重要武将の一人でもある穴山梅雪が、配下の商人にこういう命令を下している。
「敵方の手下のようなふりをして、敵の商人と取引せよ。うまく鉄や鉄砲を購入できれば、輸送のための馬は200頭でも300頭でも用意する」
武田方が、なんとしても鉄や鉄砲の不足を解消しようとしている様子が見て取れる。
また、これは年未詳ながら、信玄は富士御室の神主へ、鉄砲玉にするために悪銭(質の粗悪な銭)があったら納めよと伝えている。鉄砲や弾薬を調達するためには、なりふり構わぬという感じだ。武田軍の鉄砲、弾薬の欠乏は、かなり深刻だった。
経済封鎖に弱かった信玄は、とにかく「港」が欲しかった。そのため関東地方、特に駿河を執拗に侵攻する。当初、信玄は、関東の北条氏(相模)、今川氏(駿河)とのあいだで同盟関係を結んでいた。上杉謙信に対抗するためである。
しかし、永禄3年、今川義元が桶狭間で信長に討たれると、信玄は露骨に今川領への侵攻の意図を見せ始めた。今川領の駿河・三河は海に面している。信玄が切望していた港があるのだ。
だが、今川領を侵攻するには、大きなネックがあった。信玄の長男義信は、今川義元の娘を正室としており、今川家を擁護する立場にあったのだ。
当然、義信は関東進出に反対し、信玄と対立した。信玄としては、今川との同盟のために、義信に政略結婚をさせたのが仇となったのだ。
この事態に信玄は、どういう態度を取ったか?
なんと、跡取りの義信を自害させたのである。
義信が自死した経緯については諸説あるが、謀反の企ての罪を着せ、自害に追い込んだとされている。信玄は、それほどまでに港を欲していたのだ。
義信亡き後、信玄は今川氏の領地を侵攻し、今川との関係は壊れた。義元の後を継いだ今川氏真は、信玄の裏切りを見て謙信に接近したため、信玄は家康、信長と同盟関係を結ぶ。元亀元(1570)年には、ついに駿河を制圧した。氏真を攻め、これを伊豆に追い払ってようやく駿河一国を手にしたのだ。
ここでようやく信玄は、「海岸」「港」を持つ領地を手に入れることができた。信玄はすぐさま水軍をつくっている。
しかし、それですぐに日本各地との交易や対外貿易を行えたわけではない。当時の航海技術では、西日本から駿河まで無寄港で船を動かすことは不可能だった。日本各地との交易や明(中国)、ヨーロッパ各国と貿易をするためには、どうしても信長の勢力圏の港を避けることができなかった。当時の東日本の大名の宿命である。
信玄への経済封鎖は、これで解消されたわけではなかったのだ。そして、この経済封鎖は解かれぬまま、武田家は滅亡してしまうのである。
更新:09月22日 00:05