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武田信玄の父・信虎追放の成功の裏にあった、弟・信繁の献身

安藤優一郎(歴史家)

武田信玄 信繁兄弟

武田信玄は父・信虎から疎まれ、廃嫡の危機にあったが、クーデターを起こして、父を追放する。
だが、その成功の裏には、弟・信繁の動向が大きく左右していた。

歴史家の安藤優一郎氏が、信玄がクーデターを起こすに至った背景を解説しつつ、信繁の果たした役割をひもとく。

※本稿は、安藤優一郎著『日本史のなかの兄弟たち』(中央公論新社)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

信玄の家族と甲斐国

大永元年(1521)、信玄は甲斐の戦国大名武田信虎の長男として生まれた。母は甲斐の有力領主大井信達の娘で、大井夫人と呼ばれる。

信玄には同じく大井夫人を母とする2歳年上の姉がいた。姉は駿河の戦国大名今川義元に嫁ぎ、嫡男氏真のほか、信玄の嫡男義信に嫁ぐことになる娘を義元との間に儲ける。同母弟には4歳年下の信繁や、その下の信廉がいた。

信虎は側室との間にも多くの子女を儲ける。息子は甲斐の有力領主の養子とし、娘は嫁がせることで領国支配の布石とした。

信玄が生まれた武田氏は清和源氏の流れを汲む名門であり、鎌倉時代に甲斐の守護に任じられる。室町時代に入っても守護を務め続けたことで、守護大名として君臨した。

ところが、戦国時代に入る前からその勢いが衰えたため、甲斐は国内が混乱する。武田氏内部の抗争もその状況に拍車を掛けた。

永正4年(1507)に家督を継いだ信虎は国内統一を果たすため、合戦に明け暮れた。武田氏内部の反対派を倒す一方、敵対する領主を滅ぼし、あるいは屈伏させることで、国内統一に成功する。妻の実家大井氏にしても元々敵対関係にあり、和睦した際、その娘を妻に迎えて家臣団に組み込んだ経緯があった。

国内統一により戦国大名への転身に成功した信虎は、同16年(1519)に躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を移す。現在武田神社が鎮座する辺りに、館は置かれた。これを機に同所を甲府と命名する。

次いで、信虎は他国への侵攻をはかった。そのターゲットに選んだのが群雄割拠の状態だった隣国信濃であり、まずは甲斐とも接する諏訪郡に狙いを定める。享禄元年(1528)より諏訪郡への侵攻を開始したが、同4年(1531)には同郡を支配する諏訪氏が逆に甲斐に侵攻し、武田勢と激しく戦火を交えた。

両者の戦いは決着が付かず、天文4年(1535)に和睦する。その結果、信虎の娘で信玄には異母妹にあたる禰々姫が諏訪頼重に嫁ぐことになった。

同10年(1541)5月、信虎は頼重や信濃埴科(はにしな)郡などを領する村上義清と結んで、信濃小県(ちいさがた)郡に勢力を持つ滋野一族と同郡の海野平で戦い、勝利した。これにより、武田氏の勢威は諏訪郡から小県郡にまで及ぶ。だが、信虎の勢いもここまでだった。

 

父信虎の追放劇と家督継承

信玄は嫡男として家督を継ぐことが約束された立場であったものの、父信虎とは不仲だった。その理由は分からないが、信玄の事績などが収録された『甲陽軍鑑』には、信虎が信玄を廃嫡して寵愛する信繁に家督を継がせようと考えた話まで載っている。

しかし、当の信虎は家臣たちの反発を買っていた。度重なる合戦に動員されたことで疲弊し、その不満が充満していたのだ。当時は凶作や災害による飢饉で領民たちも疲弊し、国内は不穏な状況下にあった。

この状況を危険視した重臣たちは信虎を引きずり下ろし、信玄を当主の座に就けようと画策する。当主交代により国内の危機を乗り切ろうとした。折しも、海野平での戦いから帰国したばかりの信虎が娘婿の今川義元のもとに出向くことになった。

これを好機として、翌6月に信虎の追放が実行される。信玄は義元に連絡し、信虎が甲斐に戻れないよう処置してしまう。この後、信虎は甲斐に戻れないまま一生を終える。

当主追放という大事件にもかかわらず、甲斐では信玄に反旗を翻す動きは起きなかった。信玄を擁した重臣たちによるクーデターは成功を収める。家臣団に擁立されて家督を継いだ信玄は21歳、信虎は48歳であった。

無血クーデターとなったのも、信虎への不満が家臣団全体を覆っていたからにほかならないが、それだけではない。信虎の寵愛を受けて、家督継承者に擬せられていた信繁が信玄の意思に従ったことも大きかっただろう。

仮に信繁が信玄の行動に反発すれば家臣団の分裂は避けられず、無血クーデターというわけにはいかない。信繁が信玄の行動を支持したことで家中も分裂せず、表向き平和裡に当主交代となる。

家督を継いだ信玄は信虎と同じく、諏訪郡を虎視眈々と狙った。天文11年(1542)より出兵を繰り返して諏訪頼重を自害に追い込み、版図に組み込む。そして、諏訪郡を拠点に信濃侵攻を本格化させ、家督相続から10年ほどで信濃の大半を版図に収めた。

武田一門を代表して信玄を支えた信繁は信濃平定戦でも活躍する。信濃での合戦のほとんどに参戦したという。

だが、信濃をめぐる戦いは終わらなかった。信玄に領土を奪われた領主たちが越後の戦国大名長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったからである。こうして、川中島の戦いに象徴される信玄と謙信の戦いが信濃ではじまった。

著者紹介

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家

昭和40年(1965)、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学(文学博士)。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。おもな著書に、『明治維新 隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』など、近著に『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』がある。

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