2021年11月11日 公開
2023年03月31日 更新
武田神社(山梨県甲府市)
「暴君」というイメージが強い武田信虎だが、実は内政面で「先駆的」と評価されている事績を残している。甲斐国の首都、甲府の建設である。新たに中心都市を建設した信虎の狙いとは、何だったのか。
※本稿は、平山優著『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
武田信虎は、通説によれば、祖父信昌、父信縄の居館であった川田館をそのまま本拠として継承したといわれている。信虎は、永正11(1514)年に、川田館を整備しなおしたが(『王代記』)、永正15年6月2日、甲府に居館を移すことを国内に宣言した(同前)。
信虎が、川田館を廃し、新たな居館と首都建設を決断した理由とは何であったのか。その理由は諸説ある。それらを列挙すると、以下のようになる。①川田館周辺は、洪水の常襲地帯であったことから、政治・軍事・経済の中心としての、安定した都市整備が困難だったこと、②甲府盆地の開発が進み、伝統的な東郡(ひがしごおり)だけでなく、中郡(なかごおり)や西郡(にしごおり)などの農業や商工業も発展してきており、それらを統合するためにも、甲府盆地中心部への進出を必要としたこと、③室町後期から戦国期にかけての、甲斐の市・町・宿の状況をみると、東郡だけでなく甲府盆地にほぼ万遍なく展開する状況になっており、②の状況が裏づけられた。このことなどから、政治都市甲府の建設を領国経済の統制の軸とすることで、戦国大名としての権力確固たるものにしようとしたこと、④川田では、城下拡大には手狭であり、しかも防衛などに課題があること、などである。
この他にも、父祖以来、武田氏は守護代跡部氏(小田野城主)や、武田一門で有力国衆の栗原武田氏(栗原氏館、金吾屋敷など)の軍事力に支えられ、庇護される形で維持されてきた。信虎は、この状況を克服し、彼らに頼ることなく、自立した政治権力として国衆の上に君臨し、統治を果たすべく、新首都建設に踏み切った可能性が指摘されている。
信虎が甲府建設後、真っ先に実施したのが、栗原・今井・大井氏らの国衆を含めた家臣の城下集住策であったことは、その象徴である。それまでのように、武田氏が依存する国衆の支配領域近くに居館を建設するのではなく、逆に自ら築いた城下に彼らを呼び寄せたのは、まさに彼らの上に立つ政治権力であることを、鮮明にする行為に他ならなかった。
甲府の建設は、永正16年8月15日から本格的に始まった。同年12月20日、居館が完成したらしく、信虎は川田館からここに移り住んだ。この居館こそ、信虎・信玄・勝頼三代、62年にわたって使用された武田氏館(以下、躑躅ケ崎館)である。また信虎は、甲斐の国衆や譜代らにも、甲府城下に屋敷を造らせ、そこへ居住を命じた。信虎の甲府移転とあわせて、信虎正室大井夫人や、小山田信有正室(信虎の妹)も転居しており、信虎の甲府移転時には、すでに城下においても国衆や家臣らの屋敷がかなりの程度完成していたことを窺わせる。信虎が実施した、甲斐国衆らの城下集住政策は、当時としては画期的であり、織豊期の家臣らの城下集住策のさきがけでもあった。
信虎は、甲府に府中八幡宮(武田氏の氏神、石和八幡宮より遷座)、御崎明神(武田氏の屋敷神、川田館より遷座)、大神宮(旧石和御厨の鎮守、窪中島より遷座)、国母地蔵尊(法城寺)などを移転させ、新規造営として南宮明神(諏方明神)、大泉寺(曹洞宗、信虎の菩提寺)、誓願寺(浄土宗)、天尊体寺(浄土宗、武田竹松〈信虎の長男〉の菩提寺)、信立寺(日蓮宗)などが数えられる。
信虎が、甲府に建立した寺院として注目されるのは、国母地蔵尊(上条地蔵尊)を祀る法城寺である。この地蔵尊は、その名の通り、国生み伝説(湖水伝説)を持ち、古くから信仰され、国母地蔵尊と尊称されていた。湖水伝説とは、今も山梨県民には広く知られた次のような伝説である。甲府盆地はかつて湖であり、農業をする耕地に恵まれず、多くの人々が苦しんでいた。これを見かねた地蔵菩薩が人々の前に姿を現し、盆地南部の山を切り開き、水を落とした。そのため、たちまち水が引き、豊かな土地が出現し、人々は安心して農業に専念出来るようになったという。地蔵菩薩の恩恵により、国土が出現し、農業が盛んになったことに感謝し、人々はこれを「国母地蔵」「稲積地蔵」と尊称し篤く信仰するようになったというものである。この伝説は、すでに室町時代前期までには成立しており、甲斐国内では秋の収穫時に稲穂を供えるのが古来の風習であったという。
信虎は、この国母地蔵尊を甲府に移し、新首都に求心力を持たせようとしたのだろう。
信虎は、大永7(1527)年1月25日、南宮明神の西の土地を整地し、7月19日に国母地蔵尊をここに遷座させ、8月3日には、地蔵尊を納める新たな仏殿の柱立を始めさせた。こうして建立されたのが、法城寺である。その名は湖水伝説にちなむもの(水が去りて土と成るを表記したもの)であり、大永八年までには完成したと考えられている。
信虎は、躑躅ケ崎館を取り巻く縁辺部の山々に、甲府を防衛するための城砦を相次いで築いた。それらは、要害城(丸山城、要害山城)、熊城、湯村山城、一条小山砦、法泉寺山の烽火台、鐘推堂山、一の森山の烽火台、積翠寺山の烽火台、茶道峠の烽火台である。
このうち、史料に登場するのは、要害城、湯村山城、一条小山砦、鐘推堂山の4ヶ所である。
要害城は、躑躅ケ崎館の裏手(北側)に位置する丸山(標高775㍍、比高250㍍)に築かれた城で、『甲陽軍鑑』には武田氏の本城と記述されている。永正17(1520)年6月晦日、信虎が積翠寺裏の丸山を城に取り立てるよう命じ、普請が始まった。閏6月1日、信虎は、自ら丸山に登り、城普請の様子を検分している。この築城は、信虎に対し、大井・栗原・今井三氏が同時に叛乱を起こした直後にあたっており、いざという時のために、急遽築城を開始したものとみられる。
その後、永正18(1521)年8月10日、信虎は、今川氏親重臣福島一門を中心とする今川軍の甲斐侵攻が始まったことを受け、要害城主に、重臣駒井昌頼を任命した。これも同様の理由であろう。甲府周辺に築かれた城砦のうち、城主が任命されていたのは、要害城だけであり、いかにこの城が重視されたかがわかる。なお、この時、信虎正室大井夫人はこの城に退去し、信玄を産んでいる(以上『高白斎記』)。
次に、確実な史料に恵まれないが、永正17(1520)年頃に整備したのが、鐘推堂山である。これは甲府に至る狼煙の最終中継地として整備されたとみられ、その名称から鐘が配置されていたのであろう。
そののち、大永3(1523)年4月24日、信虎の命令で築かれたのが、湯村山城である。
この城は、躑躅ケ崎館の西部、湯村山(標高446㍍、比高約150㍍)に築かれた(『高白斎記』)。城下南側の甲府に至る道筋に、「関屋」の小字が伝わっており、信濃からの道(穂坂路)を押さえる要所であったと推定される。
大永4年6月16日、甲府の南端にあった独立丘の一条小山(現在の甲府城跡)に、信虎が築かせたのが、一条小山砦である。当時、一条小山には時宗の一蓮寺があったが、信虎は、これを山の麓の小山原に移転させた。このほかの城砦や狼煙台の築城年代は、史料が欠如しており、確定できないものの、信虎期から信玄期にかけて整備されたことは確実であろう。
これらの城砦や烽火台は、甲府の四方を守るための拠点として整備されたもので、いざというときには要害城に籠城することが想定されていたのだろう。
このほかにも、甲府城下の街路を整然と碁盤の目のように区画し、東西に八日市場(天文4[1535]年初見)、三日市場(大永6[1526]年初見)が設置され、職人町として紺屋町、連雀町、細工町などが整備された。甲府には、南端の一条小山周辺に、一蓮寺門前町がすでに発展していたが、信虎はこれを裾野に取り込むように、甲府城下町を整備していったのである。
武田信虎の甲府建設は、中世都市鎌倉や京都、奈良を意識した都市構想であることが指摘されるが、家臣の城下集住策といい、その先駆性は高く評価されるべきだろう。
更新:11月21日 00:05