2019年07月09日 公開
2022年12月28日 更新
武田信虎は、暴君だったがゆえに、息子の信玄からクーデターを起こされたと言われる。
しかし、信虎の存在なくして、信玄の活躍を語ることはできない。
というのも信虎の時代、甲斐国内は家督争いや有力国人衆による反抗など、様々な問題があり、統一状態にはなかったからである。
明応3年(1494)、信虎は甲斐守護・武田信縄の嫡男として生まれた。
当時、信縄は、その父である信昌と対立していた。信昌が信縄の弟・油川信恵を寵愛し、信恵に家督を譲ろうとしていたからである。
一時は和睦した両派だったが、信昌と信縄が立て続けに死去し、永正4年(1507)に信虎が弱冠14歳で家督相続したことで、再び対立が生じる。
家督を狙う油川信恵が、小山田氏らと結び、打倒信虎の兵を挙げたからである。対して信虎は、油川信恵を討ち取って武田家当主の座を守り、小山田氏も屈服させる。
だが、これで甲斐が統一されたわけではない。有力国人の今井氏が信濃の諏訪氏と、大井氏と穴山氏は駿河の今川氏と結び、反乱が繰り返されていくからである。
永正16年(1519)、信虎は自身の権力強化を図る。甲府に躑躅ヶ崎館を建設し、川田(笛吹市石和町)から本拠地を移転させ、甲斐国衆を城下町に集住させようとしたのだ。
これに対し、栗原氏、今井氏、大井氏が反乱。だが信虎は、三氏を同時に鎮圧し、さらに権限を強めていく。
大永元年(1521)には、穴山氏と結ぶ今川氏が甲斐に侵攻してくる、信虎はこれも撃破し、穴山氏を降伏させる。
さらに享禄4年(1531)には、飯富氏、栗原氏、今井氏による大規模反乱が勃発。信虎は、韮崎郊外の河原辺で反乱軍に勝利し、続いて翌享禄5年(1532)には、最後まで抵抗し続けた今井氏を降伏に追い込む。
これによって、武田家に反抗する勢力が一掃され、信虎は甲斐統一を成し遂げて、戦国大名化を果たしたのだ。
信玄が信濃平定に邁進できたのも、こうした信虎による甲斐統一があったからこそであろう。
参考文献‥柴辻俊六編『武田信虎のすべて』(新人物往来社)、柴辻俊六著『甲斐武田一族』(新人物往来社)ほか
更新:11月08日 00:05