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南北朝動乱は足利尊氏のせい?後醍醐天皇をうっかり逃がす痛すぎる失態

河合敦(歴史作家)

足利尊氏像

室町幕府を開いた足利尊氏ですが、その後迎えることとなる「南北朝の動乱」は、彼の「うかつさ」と「甘さ」が、引き起こしていました。幽閉していた後醍醐天皇に脱出を許し、「勝手に出ていってくれたのは吉事」と呑気に構えた結果、幕府は60年もの泥沼の戦乱に突入することになります。初代将軍のあまりに手痛い失態を解説します。

※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)より一部抜粋・編集したものです。

 

初代将軍だが、全国的な武家政権を確立できず

足利尊氏は室町幕府の初代将軍だが、生きている間は全国的な武家政権を確立できず、社会も安定しなかった。それは、後醍醐天皇が吉野に南朝をつくり、長年にわたって南朝勢力が幕府に抵抗したからだ。こうした状況を生み出したのは、尊氏のうかつさと考えの甘さにあった。

足利氏は代々、鎌倉幕府の重臣として重んじられてきたので、後醍醐天皇が叛旗をひるがえしたさい、幕府の大将として討伐に派遣された。ところが途中で変心し、鎌倉幕府の重要機関・六波羅探題を攻め滅ぼしたのである。

その後、後醍醐天皇が京都に政権(建武政府)を打ち立て政治を始めたが、独裁的だったこともあり武士の不満がつのり、東国地方で北条時行(鎌倉幕府最後の執権・高時の遺児)が反乱を起こし、足利直義(尊氏の弟)が守る鎌倉が陥落した。

直義は三河(愛知県中・東部)に逃亡し、京都にいる兄の尊氏に助けを求めた。そこで尊氏は「自分を征夷大将軍に任じ、時行征伐に派遣してほしい」と願うが、後醍醐はこれを許さなかった。

すると尊氏は、勝手に東下して乱を鎮め、その後、鎌倉を拠点にする。後醍醐から帰還を命じられるが応じない。そこで後醍醐は尊氏を逆賊と見なし、新田義貞らの軍勢を送った。

尊氏はこれに怒り、義貞らを破った勢いでそのまま大軍を率いて上洛。いったん天皇軍に敗北して九州に逃れたものの、力をたくわえて再挙し、延元元年(1336)5月25日、摂津の国湊川(兵庫県神戸市)で楠木正成や新田義貞を撃破。敗走する天皇軍を追って29日、足利軍は京都に乱入した。このとき後醍醐天皇は比叡山に遷幸し、そこに立て籠もった。

 

後醍醐天皇に和睦を受け入れさせるも...

以後、数カ月が経過したが、比叡山はなかなか落ちない。尊氏は、数度の密使を後醍醐天皇に遣わし、天皇の延臣の命の保証、天皇の皇子を光明天皇の皇太子とし両統迭立を復活させることを約束、後醍醐天皇に光明天皇への正式な譲位と京都への遷幸を求めた。そこで後醍醐も和睦を受け入れることにした。

ただ、比叡山を出て京都に向かう直前、新田義貞に対し「天運はいまだ到らずして兵は疲れ、勢いが止まってしまった。だから尊氏といったん和を結び、しばらく時を待つ。とはいえ、もし私が京に戻れば、お前は朝敵の汚名をこうむることになろう。だから恒良親王(後醍醐天皇の第六皇子)に、この場で皇位を譲る。お前は恒良を奉じて北国へ向かい、その地を従え、大軍を起こして天下の藩屛となれ」と命じたのである。

翌朝、後醍醐天皇は山を下り京都に入った。そして11月2日、三種の神器(じつは偽物)を光明天皇に渡した。ここに光明が名実ともに正当な天皇となった。後醍醐には太上天皇(上皇)の尊号が贈られた。

さらに12日には、後醍醐の第7皇子・成良親王が皇太子に就いた。鎌倉時代に天皇家は大覚寺統と持明院統に分裂し、交代で皇位に就いてきた。これを両統迭立と呼ぶが、後醍醐が大覚寺統、光明が持明院統、そして成良が大覚寺統であり、ここに再び皇位継承の在り方がもとに戻ったわけだ。

その5日前、尊氏は建武式目を発布した。これは尊氏の施政方針を示したもので、京都に政権を置き、延喜・天暦の治(平安時代における醍醐・村上天皇の治世)に加え、鎌倉幕府の北条義時・泰時の時代を理想とする政治をおこなうとある。

こうして、武家政権としての室町幕府が形づくられようとしていた矢先、にわかに後醍醐が幽閉先の花山院(花山院家が所持する邸宅)から逃亡したのである。

 

天皇が三種の神器を持って幽閉先から逃亡

一次史料は存在しないため、そのときの様子は軍記物語『太平記』でしかわからない。

同書によれば、花山院に押し込められた後醍醐天皇のもとには、刑部大輔景繁がただ一人伺候していた。彼は、後醍醐の愛妾である勾当内侍を通じ、密かに新田義貞らが金ケ崎(福井県敦賀市)で奮戦していることなどを告げ、「皆己が国々へ逃げ下つて、義兵を挙げ、国中を打ち順(したが)へて候なる間、天下の反覆遠からじ」と激励した。

そのうえで、「急ぎ近日の間に、夜に紛ぎれて大和のほうへ臨幸なり候て、吉野十津川の辺に皇居を定められ、諸国へ綸旨を成し下され」(『太平記』)と、花山院から脱出して吉野に拠点を置き、再び立ち上がることを進言したのである。

これを聞いた後醍醐は、「天下の武士の多くが、なお私を慕ってくれているのか。きっと今の進言は、天照大神が景繁の身体を借りて私に伝えたのだろう」と喜び、「明夜、必ず馬を用意して東の小門のほとりで待っておれ」と返答した。

翌日、後醍醐は三種の神器を勾当内侍に持たせ、自分は女房の姿に変じ、築地(塀)が崩れた穴から屋敷の外に出た。景繁は後醍醐天皇を馬に乗せ、自分は三種の神器を背中にかついで真夜中に大和路をくだり、梨間宿までやってきた。

ただ、白昼に南都(奈良)を、こんな格好で通過したら人びとが怪しむと考え、天皇を蓆張りにした張輿に乗せ、供奉する武士たちを駕籠かきに変装させて、日暮れまでに内山(奈良県天理市)に到達した。

追っ手が来たら万事休すゆえ、さらに景繁は夜中に吉野近くまで行こうと決め、真っ暗な中、輿を進めた。ただ、暗すぎて足元すらおぼつかない。

それでもどうにか一行は、大和国賀名生(あのう/奈良県五條市)にまでたどり着いた。景繁は、吉野の地に後醍醐天皇を入れてもらおうと、そこから一人で吉野へ向かい、金峯山の実力者の吉水法印を訪ねた。

吉野には金峯山寺、栄山寺、大澤寺など、修験関係の寺院がいくつも存在し、山岳仏教の聖地で、多数の修験者たちが修行に励んでいた。吉野の大衆(修験者)たちは、天皇をお迎えすることに一決し、甲冑を身につけて賀名生まで迎えに出向いたという。

吉野の地は、山々に囲まれた天険の地であり、かつて大海人皇子(天武天皇)や源義経が匿われた場所でもある。しかも、近くを流れる吉野川を利用して紀伊(和歌山県、三重県南部)や伊勢(三重県)に出ることができ、奈良盆地や河内の国(大阪府東部)にも近い交通の要衝地で、後醍醐方の武士たちが周囲に多かった。

 

しっかり幽閉していたら南朝は成立しなかった

後醍醐が花山院にいないことに気づいた警固の武士たちは大騒ぎした。尊氏の弟で政務を担っていた直義は、配下に対し、ただちに行き先の探索を厳命した。

尊氏のもとにも、続々と武士たちが武装してはせ参じた。すると、この状況において尊氏は、部下に向かって全く動揺する様子を見せなかった。南北朝時代の歴史書『梅松論』によると、尊氏は次のような言葉を吐いたという。

「後醍醐天皇が花山院にいるので、永久に警備をしなくてはならず、非常に迷惑していた。鎌倉幕府の北条氏がやったように、天皇を遠国に配流するのも恐れ多い。だから、勝手に出ていってくれたのは吉事である。きっと、畿内のどこかに隠れているのだろう。ご自由にされたらよい。自然と落ち着くところに落ち着くだろうし、運は天が定めるところで、人智によって変えることはできない」

これを聞いた家臣たちは、尊氏の度量に感激したというが、単に事態の大きさを把握できていないだけであろう。事実、その後尊氏は、大いに苦しむことになる。

吉野には、たちまち多くの武士たちが集まり、なおかつ後醍醐天皇は「光明天皇に渡した神器は偽物であり、私こそ真の天子だ」と公言した。これによって南朝が成立し、簡単に尊氏が平らげることのできない大勢力となってしまった。

後醍醐はそれから数年後に亡くなり、南朝も衰退して消滅するかに見えたが、今度は尊氏と弟の直義との間で、幕府内での内乱(観応の擾乱)が勃発。なんと、直義が南朝に降伏し、正統性を得て尊氏と対立するようになったのである。

すると驚くべきことに尊氏は、自分がつくった北朝を見捨て、自らも南朝に降伏したのである。この結果、南朝は元気づき、何度も京都を奪還するなど勢力を強め、結局、60年間も動乱が続いていくことになる。

もし尊氏が、花山院にしっかり後醍醐天皇を幽閉していたら、それから3年後に天皇は死去したわけだから、後醍醐方の勢力は自然に衰退したはずだ。

また光明から皇位を譲られた成良親王が即位して両統迭立が実現し、朝廷は安定したことだろう。そもそも、動乱によって多くの命も失われずに済んだろう。かえすがえすも尊氏はうかつであったといえよう。

プロフィール

河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白鴎高等学校・附属中学校に着任。2013年、東京都を退職。現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。教壇に立つ傍ら、歴史作家として、数多くの著作を刊行。「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。
主な著書に、『1話3分7日でシン常識人 オモシロ日本史』(JTBパブリッシング)、『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社文庫)、『2泊3日のぶらり日本史あるき』(青春新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。

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