歴史街道 » 本誌関連記事 » あまりにもむごい関東移封 徳川家康はなぜ受け入れたのか?

あまりにもむごい関東移封 徳川家康はなぜ受け入れたのか?

2026年07月29日 公開

河合敦(歴史研究家)

関東移封

徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。

本稿では、羽柴(豊臣)秀吉の天下統一後、父祖の地を奪われ、関東への移封を命じられた経緯について、歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。

※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の内容を、一部抜粋・編集したものです。

 

あまりにもむごい措置

天正18年(1590)7月、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を本領から切り離し、関東へ移封することを公表した。おそらく家康が内示を受けたのは、6月のことだったと思われる。この話を知ったときの家康の衝撃たるや、すさまじいものだったろう。想像するに余りある。

秀吉以前、大名や国衆が何の咎もなく、上位権力(室町幕府や信長)によって支配地から切り離される例はほとんどなかった。もしそんな措置をとろうものなら、大きな反発を呼ぶからだ。

それは、真田昌幸の例をみればよくわかる。

家康に臣属した昌幸は、信濃国上田領のほかに上野国沼田領を有していたが、家康が北条氏と旧武田領を国分けしたさい、「替え地を与えるので沼田領を北条方に引き渡すように」と真田方に求めたところ、昌幸は憤慨して徳川から離れ、上杉景勝についてしまった。

沼田領は、武田の家臣時代、昌幸当人が実力で切り取った土地だ。ましてや家康の場合、秀吉から没収される領地には、父祖代々の三河の地が含まれている。しかも三河は、人質時代から数々の危難を切り抜け、己の才覚によって支配を回復したもの。それを実力で手に入れた遠江・駿河・甲斐・信濃を含めて手離さなければならないのだ。

「いくら何でもあまりにむごい措置だ」

そう家康は、秀吉に対して激しい怒りを感じたことだろう。だが、天下を制した秀吉に逆らうことなど不可能である。しかも秀吉は、家康に対してその居城まで指定してきた。北条氏が拠点にしてきた相模国の小田原城ではなく、なんと、京都や三河から遠く離れた江戸城へ入ることを強要されたのである。

こうした危機的状況に、家康はいったいどのように対応したのだろうか。また、なぜ秀吉は、家康の本領を奪って関東へ移し、その居城まで押しつけてきたのか。そのあたりについて、最新の研究成果に触れながら詳しく考察していこう。

 

小田原北条氏の服属を任される

小牧・長久手合戦で秀吉と戦った家康は、膨張する羽柴秀吉の勢力にはかなわず、天正14年(1586)10月、ついに臣従することに決めた。

10月18日に朝日姫の病気見舞いという名目で人質の大政所(秀吉の生母)が岡崎にやってくると、家康は20日に岡崎を発って大坂へ向かった。そして26日に豊臣秀長(秀吉の弟)の屋敷に入った。明日はいよいよ、秀吉との対面の日だった。

だが、『松平家忠日記』によると、「其夜御宿へ(秀吉が) 御越、殿様(家康の)御手をとらせられ候て、おくの御座敷へ被成」とあるように、夜、サプライズで秀吉本人が家康のところに現れ、自ら家康の手をとって奥座敷に招き、存分に話をして「御昵懇(ごじっこん)」となり、「御酒もりニ被成、関白様、御酌にて御盃を殿様へ被進候」と、酒宴では秀吉自らが家康にお酌をしたという。家康もすぐに返杯したが、さすが秀吉、「人たらし」といわれるだけのことはある。かくして翌日、家康は大坂城へ入り、秀吉に対して正式に臣下の礼をとったのだった。

11月4日、秀吉が越後の上杉景勝に宛てた判物(書状)には、「家康上洛候て令入魂(じつこんせしめ)何様にも関白殿(羽柴秀吉)次第与申候」(『愛知県史 資料編12 織豊2』)とある。家康が上洛し「すべて関白様にお任せする」と申して来たと伝え、それゆえ徳川征伐は取りやめ、今後は「関東之儀家康と令談合諸事相任之由(だんごうせしめしよじあいまかすのよし)被仰出候(おおせいだされ)」(前掲書)と、「関東のことについては、家康を取次として一任することにした」と告げている。「関東之儀」とは、小田原北条氏のことである。

秀吉は関白になると、朝廷の権威を背景に本格的に諸大名に向けて私的な戦いを禁じる停戦命令を出した。大名間の紛争は、以後、自分がすべて裁定をくだすとしたのだ。

これを研究者たちは「惣無事令(そうぶじれい)」とか「惣無事」と称している。藤木久志氏が提唱した概念である。近年、この解釈をめぐっては、活発な議論がおこっている。

たとえば、室町幕府の足利将軍時代から同様の停戦命令はたびたび出されており、信長も同様だった。つまり秀吉の惣無事は、信長の継承であるなど云々。

いずれにせよ、家康はまだ関東で戦い続けている北条氏政・氏直父子の戦闘を停止させ、豊臣政権に臣従させることを秀吉から命じられたわけだ。

ちょうど、秀吉に服属した織田信雄が、家康に秀吉への服属を働きかけたのと同じ役目を担わされたのである。

プロフィール

河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白鴎高等学校・附属中学校に着任。2013年、東京都を退職。現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。教壇に立つ傍ら、歴史作家として、数多くの著作を刊行。「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。
主な著書に、『1話3分7日でシン常識人 オモシロ日本史』(JTBパブリッシング)、『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社文庫)、『2泊3日のぶらり日本史あるき』(青春新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

なぜ、徳川家の重臣・石川数正は寝返ったのか? チャンスを迎えた秀吉の企み

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

武田氏と内通していた? 徳川家康が嫡男・信康に切腹を命じた真相

河合敦(歴史研究家)

徳川家は戦国大名の「富」を恐れた? 鎖国を200年貫いた江戸幕府の狙い

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)