
日本有数の観光地として知られる北海道函館の「五稜郭」。その特徴的な星形の構造は、黒船来航に備えられた「西洋式要塞」の姿でした。「死角がない完璧な城」として誕生した五稜郭ですが、実は意外すぎる弱点と、予算不足による未完成な部分を抱えていました。
また、日本にはもう一つ「小さな五稜郭」が存在します。本記事では、戊辰戦争の舞台となった五稜郭と、軍事マニアの殿様が建てた龍岡城、ふたつの城の意外な側面を解説します。
※本稿は、真山知幸著『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)より一部抜粋・編集したものです。
【◎所在地:北海道函館市/◎主な関係者:榎本武揚/◎へんな城度:★★★★☆】
日本有数の夜景スポットとして有名な北海道の函館山では、かつてその麓に、江戸幕府の箱館奉行所が置かれていた。開庁したのは安政元(1854)年6月のこと。奉行に着任した堀利煕(としひろ)の胸には、こんな不安が広がっていたらしい。
「こんなに海の近くでは、外国軍艦から砲撃を受けやすいのではないだろうか...」
心配になるのも当然だろう。3カ月前に幕府はアメリカとの間に日米和親条約を締結。条約によって開くことになった二つの港が下田と、この箱館である。外交事務も生じるため、箱館に奉行所が開かれることになった。
外国からの攻撃を恐れた堀は、奉行所を内陸部の亀田に移転させてほしい、と幕府に申し出ている。あわせて防御力を高めるために台場の建設も提案。ともに幕府に受け入れられて、安政3(1856)年に築造を開始したのが、星形の城郭を持つ五稜郭である。
城といえば、高くそびえ立つ立派な建物をイメージするのが一般的だろう。平面的な五稜郭は、そもそも城だという認識が持たれにくい。なぜ、そんな形にしたのか。
なにしろ、国内でひたすら戦闘を繰り広げた戦国時代とは異なり、幕末に江戸幕府が警戒したのは、外国船である。西洋式の大砲を持つ相手からすれば、高くそびえる城は格好の的であり、「ここを狙ってください」と言うようなもの...。
五稜郭を設計した伊予大洲藩出身の洋学者・武田斐三郎も、おそらくそんなふうに堀に説明したのだろう。
武田は箱館に来ていたフランスの軍人から、ヨーロッパ式の築城を学んだ。ヨーロッパでは、銃や大砲から守るため、土を盛り上げて土塁を築き、その外側に「稜堡(りょうほ)」と呼ばれる陣地を造って大砲を配備するのが、主流となっていた。
武田はそんな事情を踏まえて、見た目の壮大さではなく、防御力に重きを置いた。西洋式の要塞として平坦な五稜郭をつくり上げている。五角形が形づくられたのは、死角が生まれないように稜堡を配置した結果だった。
慶応2(1866)年に五稜郭が完成したときには「これでもう外国から攻められても、ある程度は対抗できる」と関係者は胸をなでおろしたことだろう。
だが、五稜郭で幕府が対峙した相手は、外国の軍ではなかった。第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い、天皇を頂点とする朝廷に政権を返上。戊辰戦争が勃発すると、幕府は薩摩や長州らの倒幕派と戦うも敗北。江戸幕府は滅亡して、明治の世となった。
ちなみに、大将の慶喜はあろうことか敵前逃亡をはかり、明治時代には、写真や絵画、書など趣味に走っているのだから、呑気なものである。だが、まだ諦めていない旧幕臣たちもいた。榎本武揚が率いる旧幕府軍は、箱館に上陸。五稜郭を占拠して、明治新政府軍への抵抗を続けたのである。
ここにきて思わぬかたちで、外国からの攻撃に備えてつくった五稜郭が、役立つことになった。明治新政府軍は最新兵器を備えている。だが、砲弾に備えた五稜郭ならば攻撃に耐えきれるはず...だったが、総攻撃を受けると、あれよあれよという間に五稜郭は陥落。明治新政府軍の艦砲射撃の前に、なす術もなかった。
実は、五稜郭には構造的な弱点があった。五稜郭の構造を平面的にしたのは、敵の大砲から狙われにくくするためだったはず。ところが、奉行所の屋根には見張りのための太鼓櫓が置かれており、それが敵からすれば絶好のターゲットとなってしまっていたのだ。
しかも、本来ならば、外郭代わりに水堀外部に土塁を築いたり、V字型の石積を入口に築いたりする予定だったが、いずれも予算不足で叶わなかった。さらに、全方位に配する予定の半月堡も1カ所のみと、理想通りにはなかなかいかなかったようだ。
防御力が売りだったのに、無残な結果に終わった五稜郭。あまりにざんねんだが、五稜郭も将軍・慶喜ばりに「第二の人生」を謳歌する。
大正3(1914)年から公園として、五稜郭は一般開放されて、市民の憩いの場となった。さらに、令和6(2024)年に劇場版『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』が放映されてからは、観光客が殺到。大人気スポットとなっている。
映画でコナン君は、五稜郭の形を利用した大規模な地理トリックに挑んでいる。特徴的な五角形に設計したことが、意外すぎるかたちで活かされることになった。

上空から見た龍岡城(出典:地理院地図)
【◎所在地:長野県佐久市/◎主な城主:松平乗謨/◎へんな城度:★★★☆☆】
紛争や災害、病気などで苦しむ人を救うことを目的に設立された日本赤十字社には、生みの親とされる人物が二人いる。日本赤十字社の前身となる博愛社を設立した佐野常民と大給恒(おぎゅうゆずる)である。佐野は「日赤の父」、恒は「日赤の母」と呼ばれた。
さぞ平和主義的な人物だったのかと思いきや、大給恒は軍事マニアでもあった。江戸時代には松平乗謨(のりかた)と名乗り、その西洋兵器の知識を注いで築城も行っている。その城こそが、長野県佐久市田口に建てられていた龍岡城である。
ここまで読んだ読者ならば「西洋兵器の知識」と聞いて、ピンときた人もいるかもしれない。そう、北海道箱館で築かれた星形の城「五稜郭」と同じだ。
欧米列強から攻め込まれたときを想定して築城された五稜郭は、西洋兵学に基づいてつくられたもの。では、この龍岡城にはどんな特徴があるのだろうか。写真を見てみれば、なんと五稜郭と同じ五角形である。
ただ、悲しいかな、サイズは小さめで本家の4分の1程度。しかも、星型の2カ所の堀は造られていない。予算不足で断念したらしい。切ない。
五稜郭ですら防御的な欠点がいろいろとあったというのに大丈夫か、という気にもなるが、よく考えれば長野県は海に面していない。箱館の五稜郭は海から近いからこそ、外国の砲撃に備えて築城された。敵から攻められるとは思えないこの龍岡城は、そもそも築城する意味があったのだろうか?
戦とは関係なく、松平乗謨が趣味的につくったのではないか、とも言われる龍岡城。廃藩置県によって、築城後たった数年で廃城へ。実戦を体験することなく、城としての一生を終えている。
最後の最後まで、戊辰戦争での最後の戦場となった本家の五稜郭には及ばなかった。だが、日本に現存する稜堡式城郭はこの二つだけで希少性は高い。春になると星形の輪郭に沿って桜が咲き誇り、お堀に映る「逆さ桜」はまさに絶景だ。未完成のまま廃城になった儚さもまた味わい深く、訪れる価値は十分にあると言えそうだ。
更新:09月11日 00:05