2019年08月13日 公開
2023年01月30日 更新
幕末から明治にかけて、通貨の常識が変わった。それによって、日本中で混乱が起こる──。物価が高騰、農民たちによる打ちこわし、藩ぐるみでの通貨偽造……。幕末維新、いったい何が起こっていたのか。
社会全体でペーパーレス化が広がるなか、通貨の電子マネー化が進んでいる。昨今話題となった仮想通貨やペイペイなどは実体感のないものであり、通貨の概念が根本的に変わる時代が近づいていると言えよう。
このような通貨の概念の転換は、過去にもあった。幕末維新期だ。それまでは金貨や銀貨などの実物貨幣(正貨)が使用されていたが、維新を境に信用(名目)貨幣たる紙幣の時代に突入する。しかし、紙幣が定着するまでには相当な時間を要した。紙幣が取引で使用されるには、貨幣の概念の転換が不可欠だったからである。
江戸幕府は中央政府として、貨幣の鋳造権を独占していた。貨幣には金貨・銀貨・銭貨の3種類(三貨)があり、金貨は主に江戸で、銀貨は大坂で使用されたが、江戸でも大工の手間賃などは銀で支払われていた。また大坂でも小判が使われており、実際には、金貨と銀貨が併用されていたのである。
計数貨幣の金貨には大判(10両)、小判(1両)、一分金(1両の4分の1)、一朱金(1両の16分の1)、秤量貨幣の銀貨には細長い丁銀と、それより小粒の豆板銀があった。金貨は枚数で、銀貨は重さで取引された。少額の取引には計数貨幣たる銭貨、つまり寛永通宝に代表される一文銭が使われた。金貨と銀貨を本位貨幣としつつ、銭貨を補助貨幣としていたが、庶民が日常的に使用したのは銭貨である。
3種類の貨幣が併用されたため、幕府としてはその交換比率を決める必要があった。元禄13年(1700)に、小判1両=銀60匁=銭4貫文(四千文)と定めたが、金銀の相場は絶えず変動したため、あくまで基準に過ぎなかった。そこで、時価相場を受けて三貨の交換業務に当たる商売が生まれる。手数料を取って貨幣の両替を行なう両替屋だ。
鋳造権を独占する幕府は、財政難に直面すると、貨幣の質を落として大量に発行することで歳出を賄うことが可能だった。財政難という面では、藩も事情は同じだ。よって、幕府の許可を得て藩札という紙幣を発行して歳出を賄うことが日常的に行なわれていた。藩札は藩の領内以外でも通用したが、幕府や他藩との正式なやり取りで使用されることはなかった。
藩札を大量発行して一時的に財政難をしのいでみたものの、藩には、幕府発行の貨幣と交換できるだけの兌換準備金すらなくなっていた。過剰発行により、藩札の信用が、著しく低下していたのである。
幕末の頃、備中松山藩の財政を立て直した山田方谷という人物がいる。御多分に漏れず、松山藩も大量発行により藩札の信用が低下し、さらなる財政難に陥っていた。財政再建には藩札の信用を回復することが不可欠と判断した方谷は、嘉永3年(1850)より藩札の回収を開始する。3年ほどかけて回収する一方、経費節減などのやり繰りにより兌換準備金を増やし、信用が落ちていた藩札の代わりに新しい藩札を発行する準備を進めた。
同5年(1852)9月、方谷は今まで回収した藩札(約8000両相当)と未使用分の藩札(約3800両相当)を、領民たちの前で一日掛かりですべて焼却した。藩札を焼き捨てるという前代未聞のパフォーマンスに出ることで、発行主体たる松山藩への不信感は払拭される。
そのうえで、方谷は新しい藩札を発行した。その信用度は自ずから高まり、他藩にも広く流通し、近隣で最も信用を持たれる藩札になったという。
幕末期には、江戸の通貨事情が激変した。安政5年(1858)に、幕府が欧米諸国と修好通商条約(安政の五カ国条約)を締結し、自由貿易が開始されたからである。
貿易では互いの通貨の交換比率が問題となるが、日本は外国と比較すると金に対して銀が割高だった。金の銀に対する交換比率が外国では1対15、日本では1対5であったことに目を付けた外国人は、洋銀を大量に持ち込む。すなわち、日本の金貨と交換して外国で銀と引き換えるだけで、3倍の儲けを手に入れたのだ。そのため、日本には大量の銀が持ち込まれる一方、金貨が大量に流出する。
万延元年(1860)、幕府は金の含有量をそれまでの3分の1に減らす改鋳により、金銀の交換比率を外国並みとし、金貨の流出に歯止めを掛ける。また、鋳造量をふやすことにより、金貨不足に対応しようとした。金貨の品位を落としたうえに量産したことで金貨の価値は暴落し、激しいインフレが起きる。物価高騰により社会情勢は悪化し、そんな事態を招いた幕府の権威も失墜していく。
幕末に入ると、軍事費を中心に膨らんでいた歳出を賄うため、通貨を偽造する藩が続出する。幕府からしてみると鋳造権の侵害であり、贋金に他ならなかった。
更新:11月22日 00:05