2019年08月13日 公開
2023年01月30日 更新
文久2年(1862)、薩摩藩は支配下にあった琉球を救済することを名目に、琉球通宝の鋳造を幕府から許可される。許可を願い出た本当の目的は、琉球通宝の鋳造を隠れ蓑に、天保通宝(1枚で銭100文)など幕府の貨幣を偽造することだった。その偽造量は天保通宝だけで290万両に及んだという。薩摩藩の軍事力増強の資金になったことは想像するにたやすい。
大量に偽造した贋金が流通していけば、貨幣の価値がさらに下落する。物価高騰にも拍車がかかり、幕府の権威は失墜の一途を辿る。贋金を摑まされた外国商人が幕府に抗議することで、国際問題にも発展していった。
こうした通貨の混乱を受け、幕府は信用貨幣、つまり紙幣の発行を計画する。慶応3年(1867)、外国の通貨事情にも明るかった勘定奉行・小栗忠順は、大坂の豪商の資金力を借りて紙幣を発行しようと計画したが、実現をみないまま幕府滅亡の日を迎える。
幕府に代わって登場した明治政府は、財政的な基盤がほとんど無きに等しかった。そのため、御用金を豪商に献納させる一方で、慶応4年(1868)5月以降、太政官札という不換紙幣を大量に発行して歳出に充てる。坂本龍馬が高く評価した福井藩士・三岡八郎(由利公正)の献策だった。
藩札は金貨などの正貨と引き換える義務がある兌換紙幣だが、不換紙幣には、引き替える義務がない。明治2年(1869)5月、政府は発行予定の新貨幣(金貨)といずれ引き換える方針を示すことで太政官札の流通をはかるも、誕生したばかりの政府の信用不足もあり、太政官札の交換価値が額面の金額を大きく下回ってしまう。なお、太政官札は10両、5両など高額面の紙幣であったため、1分、1朱など小額面の紙幣である民部省札も発行された。
新しい紙幣は発行されたものの、幕府鋳造の三貨も発行・流通していたため、明治初年は三貨や太政官札などの紙幣、そして藩札が混在する状況にあり、経済が混乱する原因となっていた。そのうえ、諸藩が偽造した貨幣も大量に出回り、さらには太政官札の偽札まで登場したことで、その傾向に拍車がかかる。通貨の混乱が物価高騰を招くという、幕末以来の図式が続いていた。
大名貸で巨利を挙げていた大坂の両替商の天王寺屋五兵衛、加島屋作兵衛たちは、そんな混乱のなか、連鎖する形で倒産していった。
通貨の混乱を逆手に取って、巨利を挙げた人物もいた。安田財閥の創始者・安田善次郎だ。暴落した太政官札を大量に買い取った安田は、政府が額面での流通を義務付けたことを追い風に、その価値が上昇するのを待つことで差額をまるまる手に入れた。政府に恩を売ることもでき、この後、政商としての道を歩む。
通貨の混乱を終息させるには、政府発行の貨幣に一本化しなければならない。何よりも藩札の発行を停止しなければならない。明治2年12月、政府は藩札の発行を禁止する。流通まで禁じたわけではなかったが、財政難に苦しむ藩にとっては、歳出を賄う道が断たれてしまい、大打撃であった。
翌3年(1870)7月には、財政難により藩ぐるみで太政官札などを偽造していた福岡藩が政府の取り調べを受け、大参事などの首脳が拘引される。藩知事・黒田長知は罷免され、大参事・立花増美ら5人が斬罪に処せられた。通貨の混乱を助長した所行として、厳しい処分を下されたのだ。
贋金や偽札が大量に出回った信濃国の松代藩では、生活苦に陥った農民たちが一揆を起こし、城下へ押し寄せて放火や打ちこわしに及んだ。同年11月に起きた松代騒動(午札騒動)である。政府はその責任を問い、藩知事・真田幸民を謹慎処分とした。
同じ頃、広島藩でも正貨である二分金や天保通宝の偽造が発覚し、政府の取り調べを受けている。藩の内命を受けて贋金造りに携わった鉄問屋の木坂文左衛門は捕えられ、獄死した。加賀藩の支藩・大聖寺藩でも贋金造りが政府の摘発を受け、武具奉行の市橋波江が、責めを一身に負って切腹している。
明治4年(1871)6月、ようやく新貨条例が公布される。新貨幣の単位は円。それまで流通していた貨幣1両は新貨幣(金貨)1円とし、補助貨幣として銀貨・銅貨を造るというのが趣旨だった。しかし、財政難を背景に金貨の発行は少量にとどまり、新貨幣の不足を補うため、円建ての紙幣が発行されることになった。
藩札が一気に政府発行の紙幣に切り替わる機会は突然訪れる。明治4年7月14日、廃藩置県が布告されたからである。
藩が消滅すると藩札はただの紙くずになるので、政府は速やかに新しい紙幣を交付する必要に迫られた。また、藩札引き換えの方法についても布告する必要があった。さもないと、藩札を持っている者が引き換えを求めて騒ぎを起こすのは目に見えていた。廃藩置県に伴う事務処理で、政府、つまり大蔵省が最も懸念したのは、藩札引き換えに伴う混乱だった。
大蔵省は藩札の引き換え方法の検討に入る。時間があまりないなか、大車輪の活躍をしたのは大蔵省に出仕中の渋沢栄一だった。渋沢の回顧録(『青淵回顧録』)によれば、2、3日の間、不眠不休で引き換え方法を立案したという。
廃藩置県により、藩札のほか府札や県札も回収され、政府の紙幣と引き換えられていった。幕府が鋳造してきた三貨も同様だ。当時流通していた様々な貨幣は、大蔵省兌換証券、明治通宝札、国立銀行紙幣などの政府発行の貨幣(主に紙幣)に時間をかけて切り替わっていき、混乱も徐々におさまり、人々が紙幣を通貨として認識するようになっていった。
新貨条例が出てから11年後の明治15年(1882)、大蔵卿・松方正義の尽力により、日本銀行が設立、開業。そして3年後の明治18年(1885)5月、日本銀行券の発行が始まった。政府発行の紙幣は、この日本銀行券の発行で一段落し、通貨騒動はようやく終息へと向かうのである。
幕末維新を境に通貨の概念は大きく変わった。実物貨幣の正貨から信用貨幣の紙幣の時代へと突入したが、それから150年余を経過した今では、ペーパーレスの時代への移行がはじまっている。通貨の概念はいま、再び大きく変わりつつある。
更新:11月22日 00:05