
本格大河からファンタジーまで、多彩なジャンルの中国時代劇が注目を集めている。
中でも根強い人気を誇るのが、寵姫たちが皇帝の愛情を独占すべく競い合う宮廷ロマンスだ。実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか? 今回は、その中でも賢婦と語られた女性を紹介しよう。
※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです
光烈皇后は南陽郡(現在の河南省南陽市)の豪族の娘で、本名を陰麗華という。
前漢が王莽の簒奪により一度滅亡すると、各地で劉氏を旗頭とする反乱が続発し、最終的に陰麗華と同郷の劉秀が後漢を立て、初代皇帝・光武帝(紀元前6〜後57)となる。
陰麗華は、挙兵前の劉秀が「仕官するなら執金吾(しっきんご)、妻を娶らば陰麗華(官職に就くなら華やかな都の儀仗兵、妻にするなら陰麗華がいい)」と語るほど評判の美女で、19歳のときに劉秀の妻となる。
劉秀が皇帝に即位すると、洛陽の後宮に迎えられたが、劉秀は有力豪族の娘・郭聖通(かくせいつう)との間に男子をもうけていたため、陰麗華は皇后の座を辞退して、一段低い貴人となった。
しかし、陰麗華を寵愛していた光武帝は、郭皇后を嫉妬深く傲慢だとして廃位すると、陰麗華を新たな皇后とした。郭皇后の生んだ子も皇太子を辞退し、陰麗華の生んだ劉荘が新たな皇太子に立てられ、後に後漢2代明帝となる。
後漢建国の苦難を共にしたことから、陰麗華は皇后になってからも、光武帝の死後に皇太后となってからも質素な生活を守り、自身の一族を要職につけず、むしろ廃位された郭皇后の一族を厚遇した。
その慎ましい性格のまま、光武帝の死後7年後に病死し、光烈皇后の号が贈られた。陰麗華に育てられた明帝も聡明で、陰麗華が推薦した馬皇后をそばに置いて後漢の安定期を築いた。
後漢末期は宦官と外戚が横行して王朝を弱体化させたが、陰麗華から馬皇后の代では外戚の専横は抑えられ、中国史における最も優れた皇后のひとりとして讃えられている。
南北朝時代に北魏から分裂した北周の重臣・独孤信(どっこしん)には、多くの娘がいた。長女は北周の皇帝である2代明帝に嫁ぎ、四女が大将軍の李昞(りへい)に嫁ぎ、七女の伽羅も隋国公となった将軍の楊堅(541〜604年)に14歳で嫁ぐ。
楊堅は伽羅との間に生まれた楊麗華を、北周の4代宣帝の皇后とし、宣帝が早くに亡くなると、わずか7歳の静帝を即位させて実権を握り、幼い静帝から禅譲される形で皇位についた。
楊堅は国号を隋として初代文帝となり、伽羅も皇后に立てられた。聡明で思慮深い皇后の支えもあって、隋は南朝の陳を滅ぼして、約300年ぶりに中国を統一する。
伽羅は楊堅を叱咤激励し、判断が間違っていると思えば遠慮なく諫めたという。また、公私の別をわきまえ、身内が不祥事を起こしたときも「国家のことに私情をはさんではいけない」と、法に則って処断させた。群臣たちは皇后を信頼し、楊堅と並んで「二聖」と呼んだ。
一方で嫉妬深く、楊堅が愛妾を持つことを許さず、結婚するときに、自分以外との間に子をつくらないよう約束させている。楊堅が秘かに愛妾をつくったことを知るとこれを殺害し、怒った楊堅が単騎で宮中を飛び出してしまったという話も伝わる。ただし、不幸な境遇の女性には同情し、滅亡した陳の皇族であった宣華(せんか)夫人などは後宮に迎え入れている。
権力者の多くが愛妾を抱えることが当然だった時代に、一夫一婦制の原則を持ち込んだ伽羅は、自分の子や臣下にも潔癖さを求めた。
楊堅との間に五男五女をもうけたが、多くの愛妾を抱える皇太子の楊勇を嫌い、品行方正にふるまう次男の楊広を後継者にするように画策し、59歳で亡くなった。
ただ、伽羅が亡くなり楊堅が病床に臥すと、楊広はそれまでの態度を覆して本性を現わし、即位後は暴政をくり返した。最後はクーデターにより殺害され、隋は2代で滅亡する。楊広は煬帝と呼ばれ、中国史上最大の暴君とされた。その後に唐を立てた初代高祖・李淵は、李昞に嫁いだ伽羅の姉が生んだ子だった。
更新:08月10日 00:05