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三国志と並ぶ中国三大演義「隋唐演義」 あらすじ、時代背景を一挙解説

2026年06月01日 公開

島崎晋(歴史作家)


煬帝が開削した京杭大運河

「三国志」は日本でも高い人気を誇るが、それとならんで中国三大演義のひとつに数えられるのが、『隋唐演義(ずいとうえんぎ)』である。果たして、どんな物語が展開されるのか。そして、人気を博した要因はどこにあったのか。大長編のエッセンスを、一気に紹介しよう。

※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

170余年の興亡を描いた物語

「演義」という言葉を聞いて、歴史好きの人がまっさきに思い浮かべるのは『三国志演義』に違いない。国語辞典の『広辞苑』によれば、「演義」とは「中国で、歴史上の事実を修飾し小説的興味を添え、俗語で叙述した書」のこと。わかりやすく、通俗小説と呼ばれることもある。

中華圏ではタイトルに「演義」とつく作品が多く作られてきたが、一番人気はやはり『三国志演義』で、二番人気は『封神演義』か『隋唐演義』のどちらかだろう。

この二作のうち、『封神演義』は殷から周への王朝交替に仙人界の二大派閥が絡み、人間と仙人、道士、妖怪などが入り乱れて戦いを展開する歴史ファンタジーである。

それに対し、『隋唐演義』は『三国志演義』と同じく人間界における人間同士の興亡を描いた作品だ。史実と虚構をない交ぜにしながら、隋による天下統一(589年)から、唐の建国(618年)、李世民(りせいみん)による政権奪取(626年)、則天武后による唐朝の中断期(690〜705年)などを経て、安史の乱(755〜763年)が終結するまでの約170余年間を物語化している。

成立は清(1644〜1911年)の初め頃で、日本ではあまり読まれなかったが、田中芳樹氏による編訳(中央公論新社刊)と安能務氏によるリライト(講談社)が出版されてから、いささか知られるようになった。

170余年と言えば、黄巾の乱(184年)から晋による天下統一(280年)までを物語化した『三国志演義』で描かれる期間よりも長い。

だが、『三国志演義』がそうであるように、人気がある場面は序盤から中盤に集中しており、中国で2013年に制作されたテレビドラマ『隋唐演義〜集いし46人の英雄と亡びゆく帝国(原題は『隋唐演義』)』全62話も、李世民による政権奪取をもって完結。途中で主役を何回も替えるのは、そのキャラクターに感情移入してきた視聴者の関心を断ち切ることになるから、賢明な判断と思われる。

それはともかく、ドラマのタイトルにある「亡びゆく帝国」は短命に終わった隋王朝を指している。一方、46人の英雄が集った場所は瓦崗(がこう)という地に設けられた要塞で、『水滸伝』における梁山泊と同じく、為政者の手が及ばない解放区のごとき空間だった。

原作の前半部分と同じく、同ドラマの主人公は瓦崗寨(がこうさい)に集った英雄のひとりで、姓は秦(しん)、名は瓊(けい)、字(あざな)は叔宝(しゅくほう)。だが、時代背景に不案内な読者もいるだろうから、ここでは瓦崗寨と秦瓊について語る前に、隋による天下統一から滅亡、唐による再統一までの流れについてまとめておこう。

 

隋の登場、そして反乱の拡大

まずは前史から。三国志の動乱は司馬炎の晋(西晋)によって終結したが、この統一王朝は短命に終わり、4世紀初頭以降、中国は五胡十六国と南北朝という分裂の時代に後戻りする。これを終わらせ、再び統一を成し遂げたのが、北朝から出た隋の楊堅(ようけん。文帝)だった。

北魏から西魏・東魏、北周・北斉、隋と続いた北朝の歴代帝室は純粋な漢人ではなく、五胡(胡は北方・西方の民族)のひとつである鮮卑(せんぴ)のうち、漢人の言語や漢字、儒教など中華文化の受け容れを通し、すっかり漢化した集団からなっており、唐の帝室(隴西李氏)も系統はいっしょである。

楊堅の長女が北周宣帝の正室で、楊堅と北周明帝の正室及び唐の李淵(りえん。高祖)の母が実の姉妹であるなど、同集団の有力者たちは何重にも婚姻関係を結んでいたが、それは結束力を高める場合もあれば、その真逆もあり、北魏の分裂から隋建国までの歴史は、重臣による簒奪の繰り返しだった。

果てしなく続くかと思われた動乱の時代も、隋が南朝の陳を平定したことで幕を閉じ、「開皇(かいこう)の治」と称される文帝の善政のもと、安定平和の時代が到来するが、それは淡い期待に終わった。598年の高句麗遠征の失敗に続いて、600年、皇太子の楊勇(ようゆう)を廃嫡して次男の楊広(ようこう)を新たな皇太子に立てた頃から、雲行きが怪しくなった。

604年には文帝の崩御を受け、楊広が即位するが、彼は東都洛陽城の造営、黄河と長江を結ぶ大運河の開削、高句麗遠征など、民を著しく疲弊させる大事業をいくつも重ね、唐代に「煬帝(ようだい)」という諡号(しごう)を付与された。「煬」は「礼を去り、衆を遠ざける(礼儀に背き、民衆から見放された)」を意味する漢字だから、大帝国の君主としては限りなく不名誉な諡号だった。

隋に対する反乱は煬帝が即位した直後から見られたが、どれも取るに足らない規模で、すぐさま鎮圧された。ところが、煬帝による最初の高句麗遠征が開始された612年正月頃からは反乱の規模は大きくなり、回数も増え始めた。

二度目の高句麗遠征最中の613年6月には、楊玄感の乱が起きる。楊玄感は文帝時代に重臣筆頭であった楊素の子で、煬帝から疎んじられたことを恨んでの挙兵だった。この反乱自体はわずか2カ月余で鎮圧されたが、帝国全土で隋を見限る者が続々と現われ、反乱の炎は四川を除く帝国全土に波及した。

それでも煬帝は、三度目の高句麗遠征に着手。自殺行為以外の何物でもなく、反乱は激しさを増し、煬帝は比較的平穏な江南の江都(現・江蘇省揚州市)に逃れるが、618年には娘婿の宇文化及(うぶんかきゅう)が謀反を起こす。

皇帝の最期に相応しく、煬帝は毒酒を仰ごうとするが、管理役の宦官が逃げてしまったため、ありかがわからない。そのため煬帝は自分が身に着けていた布を兵士らに渡し、縊り殺してもらうしかなかった。

 

群雄割拠、唐の統一、暗闘...

全土に反乱が波及した様子を、史書は「天下の人、十分の九を挙げて群盗となる」と伝える。確認できるだけで、反乱集団の数は200余に及んだという。紀元前の春秋時代を彷彿とさせる群雄割拠の状態に逆戻りした形だが、統一をあるべき姿とする観念が広まっていたのか、淘汰が進むのも速く、煬帝が落命した頃には20余にまで減っていた。

当時において人口密度が最も高かったのは黄河の中下流域で、そこに限って言えば東から、国号を夏(か)とした竇建徳(ほうけんとく)、皇帝と称した宇文化及、瓦崗を根拠地にして魏公(ぎこう)と称した李密(りみつ)、洛陽に拠り国号を鄭(てい)とした王世充(おうせいじゅう)、国号を唐とした李淵の五大勢力が激しい攻防を繰り広げた。

これらのうち最初に李密、次に宇文化及が脱落。王世充が李淵・李世民父子の唐軍相手に敗北を重ね、洛陽での籠城戦にまで追い込まれる。すると、竇建徳は漁夫の利を得るなら今しかないと、唐軍に背後から攻めかかろうとするが、李世民の巧みな戦術の前に決定的な敗北を喫した。

この一戦により、黄河の中流域一帯は唐の手中に帰し、唐は天下統一に大きく近づいた。623年にはほぼ平定がなり、626年には最大の不安要素だった北方民族の突厥(とっけつ)との間で和議が成立。628年には陝北(せんほく)に割拠する梁師都(りょうしと)を滅ぼし、統一事業を完成させた。

李淵父子が一丸となった成果と言いたいところだが、実は統一の完成より前、李淵の足元で深刻な問題が生じた。李淵の長男で皇太子に指名されていた建成(けんせい)と次男世民の対立である。四男の元吉(げんきつ)が建成を支持しながら、漁夫の利を狙ったことから、水面下での暗闘はより激しさを増した。

高祖が毅然とした態度を取っていれば、兄弟間の争いは避けられたかもしれない。しかし、高祖は李世民が大きな軍功を挙げるたび、手柄に相応しい地位を与え、ついには天策上将という王公より上の尊称と、陝東道大行台尚書令(せんとうどうだいこうだいしょうしょれい)という、黄河中下流域における民政と軍事を統括する全権まで与えてしまった。

これを見た建成が危機感を強めないはずはなく、帝都の長安に張り詰めた空気が漲るなか、先手を打ったのは李世民だった。626年6月4日早朝、手勢を率いた世民が登庁する建成と元吉を宮殿の北門にあたる玄武門で待ち伏せ、問答無用に討ち取ったのである。これを玄武門の変と言う。

数日後、李世民は皇太子に立てられ、2カ月後には高祖から譲られ帝位についた(太宗)。数えにして29歳の若さで、これより史上稀なる太宗の善政「貞観(じょうがん)の治」が開始される。

 

瓦崗寨に集った男たち

話を『隋唐演義』中の瓦崗寨と秦瓊に戻そう。原作もドラマ版も大筋では史実に忠実だが、登場人物の性格や行動、男女間の恋愛を含めた私的な関係など、細かなところには創作や改変がふんだんに施された。

たとえば瓦崗寨は、河北省と山東省の省境に近い河南省北部の滑県(かつけん)にある実在の地名だ。楊玄感と親交のあった李密は早くから反乱に参加し、敗れて捕虜となりながら脱走に成功。長い逃亡生活のすえ、名門出身で深い学識を有するところを買われ、参謀として瓦崗寨に迎えられた。

瓦崗寨の初代頭領は農民出身で、地方役人の経験もある翟譲(てきじょう)。地方豪族出身の徐世勣(じょせいせき。のちに李勣〈りせき〉)や李密を配下に加えたことで、河南の地で急速に勢力を拡大させるが、好まずして群盗から群雄の一人と成り上がるに及び、自分には分不相応だとして、李密に頭領の座を譲った。

その後も瓦崗寨へ合流する群盗、英雄、豪傑は後を絶たず、幹部クラスだけでも46人を数えるまでになるが、彼らに共通するのは圧政を重ねる隋の打倒と世直しの志であり、これは『水滸伝』で言う「替天行道(天に替わりて道を行なう)」に近い感情だった。

李密が頭領となった瓦崗寨で、特に重んじられたのは秦瓊、単雄信(ぜんゆうしん)、徐世勣、程知節(ていちせつ。程咬金〈ていこうきん〉)の4人である。

このうち秦瓊は将軍の家系に生まれ、程知節とは幼馴染の間柄。親孝行で仁義に篤く、誠実な人柄により世間の好漢からも尊敬を集めた。文武両道にして、金翟(きんかん)という左右一対の打撃系武器を愛用。李淵一家が刺客に襲われた現場に出くわし、一同を救ったこと、うっかり李密の勢力圏に足を踏み入れ、捕らわれの身となった李世民を李密に無断で逃がしてやったこともある。

二番目に挙げた単雄信は匪賊の出身。秦瓊とは旧知の間柄で、秦瓊が病に倒れて困窮した際には自身の縄張り内に匿った。槊(さく)という騎兵用の長槍を愛用。一族を殺された恨みから、とことん李淵を敵視していた。

三番目の徐世勣は豪族の家の生まれで、単雄信を介して秦瓊と懇意となり、智謀に秀でたことから、瓦崗寨では軍師として采配を振るった。唐に帰順してのち、李淵から姓を賜り、李世民と同じ「世」を使うわけにはいかないというので、姓を李、名を勣に改めた。

四番目の程知節は秦瓊の弟分で斧の使い手。『隋唐演義』とほぼ同時期に成立した『説唐全伝』と前掲のドラマ中ではなぜか、天才的な強運の持ち主として描かれた。それゆえに瓦崗寨の初代頭領に祭り上げられ、「混世魔王(こんせいまおう)」と称するなど、主要キャラクターのなかで最も大きな改変が加えられている。

 

『隋唐演義』に流れる歴史観

瓦崗寨に集った46人は乱世に「義」を体現させようと誓い合い、義兄弟の契りをも結んだのだが、李密が元頭領の翟譲を警戒するあまり、理不尽に殺めたことをきっかけに、瓦崗寨の結束に亀裂が生じる。すぐには表面化しなかったが、失望を感じた者は少なからず、単雄信はその筆頭だった。

この伏線があるため、李密が王世充相手に大敗北を喫した際、単雄信はよい機会として、王世充に投降した。李密自身は配下の誰にも相談することなく、唐に帰順した。

李世民を逃がしてからというもの、李密から冷遇されていた秦瓊と徐世勣はハタと困った。群雄の淘汰が進んだ状況では、もはや彼らだけでは自立を維持できず、群雄の誰かに投じるしかなかったからだ。

それまでの付き合いから李密のいる唐に帰順するが、李世民から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われていた李密に活躍の機会は与えられず、不満を募らせた李密は山東で再起を図るべく、唐から逃げ出してしまった。

秦瓊と徐世勣に対しては、またしても一言もなかった。ここまで無下に扱われては彼らの忍耐も限界を迎え、李密との絶縁を決意。李世民が非凡な人物であると確信したことに加え、命を二度まで救った経緯もあることから、秦瓊の従兄弟にあたる羅成(らせい。史書では羅士信)をあわせた3人で、唐に帰順した。彼ら以外の瓦崗寨の面々では、程知節や文官の魏徴(ぎちょう)が同じく唐に帰順した。

秦瓊をはじめ瓦崗寨の面々は、単雄信にも唐への帰順を勧めるが、単雄信は尾羽打ち枯らし捕虜となってなお帰順を拒んだため、当人の望みもあって斬首の刑に処された。ときに621年のことである。

竇建徳と王世充も同年のうちに降伏。竇建徳の残党やその他の群雄も623年までにあらかた平定され、この間に唐の陣営には新たに尉遅恭(うっちきょう。字は敬徳)という勇将も加わった。秦瓊との一騎打ちで互角に渡り合い、勝負がつかなかったのだから、相当な強さである。

全土の平定がほぼ終わったところで、『隋唐演義』前半の登場人物はほぼ出揃っていた。瓦崗寨に集った46人はみな、正義が行なわれる世の到来を願ったわけで、李世民こと唐の太宗による貞観の治がまさにそれというのが、『隋唐演義』に流れる歴史観である。

ここまで正義が強調される理由としては、『三国志演義』や『水滸伝』と同じく、『隋唐演義』も書籍化される前に、講談や芝居の人気テーマと化していたことが挙げられる。聴衆の反応を見ながら台本の書き換えが重ねられ、大衆受けする作品として完成したわけで、現実には正義が通ることが少なく、縁故や賄賂で左右される例が多かったからこそ、読み書きのできない民衆はせめてフィクションの世界で溜飲を下げようとしたのだ。

『隋唐演義』も読み書きの達者な人間の書いた原稿がそのまま書籍化されていたなら、読者をさほど獲得することができず、後世に伝えられることもなかったかもしれない。

プロフィール

島崎晋(しまざき・すすむ)

歴史作家

立教大学文学部史学科卒。東洋史学専攻。卒業後、旅行代理店勤務を経て、出版社で歴史雑誌の編集に携わり、現在は歴史作家として活動中。著書に『覇権の歴史を見れば、世界がわかる─争奪と興亡の2000年史』『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』などがある。

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