2019年01月07日 公開
2019年01月07日 更新
日清食品創業者・安藤百福
昨年の10月1日から始まったNHK連続テレビ小説「まんぷく」。
世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」や世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明した、日清食品の創業者・安藤百福と妻・仁子がモデルだ。
百福は数々の事業を手がけるも、五十歳手前にして無一文に――。
しかし彼は、決してあきらめなかった。
昭和33年(1958)に発売された世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」。
この「チキンラーメン」を世に生み出した人物こそ、安藤百福です。
今から60年前に百福が発明したインスタントラーメンは、その後世界中に広まり、今や年間1000億食以上も食べられる「世界食」に成長しています。
世界の食文化を変えた彼はまさに、「世紀の発明家」と言えるでしょう。しかし、ここに至るまでの人生は、決して平坦な道ではありませんでした。
明治43年(1910)3月5日、百福は、当時日本の統治下にあった台湾で生まれます。幼い頃に両親を亡くし、兄二人、妹一人の四人兄弟は祖父母のもとで育ちました。
祖父が経営していた呉服屋に出て、大人たちのやり取りを見るのが好きだったという百福少年。彼は自然と「商売」に興味を持ち始めます。
商売をやるなら「新しいことを始めたい」という想いの強かった百福は、機械編み布地メリヤスに着目しました。昭和7年(1932)、22歳の百福は「東洋莫大小」という会社を立ち上げます。
メリヤス販売は大成功を収め、百福は大阪に「日東商会」を設立し、貿易業務を拡大。工場で独自に考案した特注品を作らせ、売上を伸ばしました。
第二次世界大戦が始まると、統制が厳しくなり、貿易の仕事に打ち込むことができなくなりました。しかし、百福は、状況に応じて次々と事業を始めます。
軍が扱う幻灯機(スライド映写機)が足りないと知ると、一から学んで幻灯機の事業を始める。疎開先では、25ヘクタールの裏山を購入し、炭焼きの事業化を。戦災で家を失った人のために、バラック住宅を製造……。
与えられた環境に絶望するのではなく、どんな場所でも斬新なアイデアによって次々と事業を起こしました。
そんな百福ですが、彼の人生には多くの災難が降りかかります。
川西航空機の下請けで、軍用機用発動機の部品などを製造する会社を、知人と共同経営していた時のこと。
資材担当者から「数が合わない。誰かが横流ししている」という騒ぎを聞いて、憲兵隊に出向きました。ところが共同経営者に裏切られ、濡れ衣を着せられてしまいます。
拷問を受け、留置場に放り込まれた百福でしたが、そこでのちにつながる経験をします。粗末な食事環境の中で、食の大切さを痛感するのです。
その後、ようやく解放された百福を、さらなる災難が襲います。
終戦後、飢餓状態の人々を見て、改めて食の大切さを考えた彼は、仕事のない若者たちを集めて、塩作りを始めます。
事業とは言い難いので、若者たちには給与ではなく小遣いを与えました。
これが「納めるべき税金を納めていない」と見なされてしまうのです。脱税の疑いで、GHQに逮捕されます。
巣鴨プリズンに収監された百福は、無実を主張して提訴します。勝訴目前でしたが、訴訟が長引くことの家族への影響を第一に考え、訴えを取り下げることで釈放となりました。
まだ続きます。昭和26年(1951)、大阪で新しく設立された信用組合の理事長になって欲しいと頼まれ、百福は断りきれず引き受けました。
しかし、この信用組合の経営が次第に悪化し、破綻へと追い込まれます。
結果、責任を取らされ、財産は没収――。47歳にして百福は、妻子を抱えながら無一文となってしまったのです。
更新:11月23日 00:05