2019年01月07日 公開
2019年01月07日 更新
47歳で無一文となれば、多くの人は人生に絶望するでしょう。
しかし、安藤百福は違いました。「過ぎたことをいつまでも悔やまない」という性格で、道を切り拓いていきます。
百福は、新たな開発に取り組みます。お湯があれば、すぐに食べられるラーメンです。
戦後の闇市で見た、ラーメン屋台に並ぶ長蛇の列が忘れられず、いつかラーメン商品の開発に取り組みたいと、彼は思っていました。食の大切さを痛感していたことも、大きかったでしょう。
昔馴染みの大工に頼んで、庭の離れに10平方メートルほどの小屋を作ってもらい、そこで開発に没頭しました。
一年間、一日の休みもなく試行錯誤を繰り返し、ついに、油揚げ即席麺の基本的な製法技術「瞬間油熱乾燥法」を見出します。
ある時、台所へ入っていくと、妻の仁子が天ぷらを揚げていました。その様子を見た百福は、「これだ」とひらめきます。
水と油は相容れない――。百福はこの原理に着目しました。
麺を高温の油に入れると、含まれる水分が外にはじき出され、ほぼ乾燥状態となる。その結果、半年経っても腐敗しない保存性を獲得しました。
そして、乾燥した麺に熱湯を注ぐと、水分が抜けてできた無数の穴からお湯が吸収され、味付けされた麺からスープが溶け出し、麺は元の軟らかい状態に戻る……。
こうした仕組みができ上がったら、あとは応用。麺を一定の形に揚げるため、針金と金網を使い、四角い型枠を作りました。
その中に麺をほぐして入れ、手で同じ厚みに整えてからフタをする。その状態でゆっくりと油につけると、麺は綺麗な四角形に揚がる。
48歳にして百福は、世紀の発明を成し遂げ、人生の再スタートを切ったのです。
こうしてできた世界初のインスタントラーメンは、昭和33年、「チキンラーメン」として発売され、その後、注文が殺到します。
その成功は、家族の支えなくして語ることはできないでしょう。
百福が仁子と結婚したのは、百福が35歳の頃です。それからずっと、仁子は夫の苦難に寄り添ってきました。
信用組合が破綻し、子どもを抱えて、無一文となってしまっても、仁子はしっかりと家庭を支えました。
だからこそ百福は、「チキンラーメン」の発明に没頭することができたのでしょう。
そして、「瞬間油熱乾燥法」は、仁子の揚げる天ぷらがきっかけとなり誕生しました。
また「チキンラーメン」発売後は、工場での大量生産の体制が整うまで、家内工業的に商品生産をしていました。妻や子ども全員で、商品のパッケージングや荷造りをして、百福を支えたのです。
こんなエピソードがあります。
工場の仕事を手伝っていた仁子が帰宅途中、友人に出会いました。仁子はできたばかりのチキンラーメンが入った段ボールケースを下げていました。友人は「ご主人は何をしているの?」と聞いてくる。
「ラーメン屋さんです」仁子が答えると、友人は、「あら、ラーメン屋さんですか」とちょっと驚いた顔です。当時、職を失った人が屋台引きへと転職するケースが多かったこともあり、百福が「屋台引きをやっている」と勘違いしてしまう。
それに対し仁子は、「主人は将来必ずビール会社のように大きくなると言っています。ラーメンにはビールと違って、税金がかかりませんからね」と言って胸を張りましたが、分かってもらえない様子でした。
このエピソードは、仁子が夫の仕事にプライドを持っていたことを示しています。
チキンラーメンを開発した13年後の昭和46年(1971)、安藤百福61歳の時に、今度は世界初のカップ麺「カップヌードル」の開発に成功します。
第一線を退いてもおかしくない年齢ですが、開発意欲を持ち続けていたのです。
なぜ彼は、次々に斬新な発想で商品開発に成功したのか。
それは、常識にとらわれない「素人」の発想を持っていたからでしょう。
ソニー創業者・井深大も自著において、ホンダ創業者・本田宗一郎との共通点として同様のことを指摘しています。
彼らに共通するのは“素人性”です。
「素人」が最初に思い描くのは、こういうものを作りたい、というビジョンです。そこには、既に世の中に出回っているものに手を加えたり、誰かの真似をしたりという発想はありません。
専門家は、自らのスキルや知識を活かして商品を作ろうとします。ものごとを理屈で考える傾向がある。そして、失敗することがあまりない。
一方、傍から見たら不可能とも思える目標を立てる素人は、直感やひらめきで動くことが多い。実地体験で身につけた洞察や見識によるので、結果として失敗を繰り返す。
しかし、失敗を重ね試行錯誤することで、新たなアイデアが生まれてくるのです。
素人発明家として失敗の中から安藤百福が生み出した、インスタントラーメン。それは、新たな食文化として世界に広がっていきます。
そこには、彼の原点ともいうべき、食の大切さへの想いがありました。
百福は、開発した技術を独占するのではなく、希望する者なら、誰でも使えるようにしました。それによって、業界は発展していきます。
彼はこう言い残しています。
「野中の一本杉として栄えるより、大きな森となって発展した方がいい」
更新:11月23日 00:05