孫権と結んで曹操軍を撃破した赤壁の戦いの後、209年、劉備は荆州南部の四郡を押さえ、さらに益州、漢中へと勢力を拡大していきます。
実は当時の益州は、内部での対立関係が先鋭化し、誰かが入れば取れるような混乱状態にあると考えられていました。実際、曹操や呉の周瑜も益州を狙っています。
しかし、210年に周瑜が没したことで、呉の方針は魯粛が唱える「天下三分の計」へと転換しました。魯粛は、曹操、孫権、劉表が鼎立することを構想しており、劉表が死去したため、その代わりに劉備を3本目の柱として育てようとし、これを孫権が受け入れたのです。
曹操は涼州、漢中、益州という順番で押さえる予定でしたが、赤壁の戦いで負けたことで後れを取り、漢中へ進もうとしたところで、劉備に先に漢中を押さえられてしまいました。
この間、劉備は圧倒的軍事力を誇ったわけではないので、その成功は一見、諸葛亮の戦略が優れていたためのように見えます。
もちろん、諸葛亮の戦略が大きかったのは確かです。しかし、赤壁の戦いでの曹操の敗北や、周瑜の急死といった偶然性が、絶好の機会をもたらした面も、歴史として見落とすことはできません。
ところで漢中を押さえたことは、劉備と諸葛亮にとって、大きな意味をもちました。この地はかつて、漢を樹立した劉邦の領地で、漢王を称したことから漢帝国の由来ともなりました。
漢の再興を掲げる以上、劉備も漢王を名乗りたいところですが、献帝が生きているので、そういうわけにはいきません。そこで劉備は、漢中王を称するわけですが、それによって劉邦のような存在であることをアピールできました。
そして221年、劉備は曹操の息子・曹丕が献帝から禅譲されたのを受け、ついに蜀(漢)の皇帝に即位するのです。
劉備の快進撃には偶然性があったことを指摘しましたが、その前提となったのは、やはり諸葛亮が描いた戦略というべきでしょう。
無闇に戦っていたのでは、未来は開けません。どの順番でどのように戦えばいいのか。それを示したのが「草蘆対」、すなわち世に知られる「天下三分の計」です。
三顧の礼で諸葛亮と会談した際、劉備は「現状をどうみるか」「なぜ曹操が強いのか」「これからどうすればいいか」という3つのことを訊ねました。3つ目の「これからどうすればいいか」という問いの答えとして、諸葛亮は天下三分の計を示しました。
ただし、諸葛亮の「天下三分の計」は『三国志演義』で語られるような奇抜な策ではなく、「劉備には、それ以外に選択肢がない」というべきスタンダードな戦略でした。
一方、先ほど触れた魯粛の「天下三分の計」は、斬新な発想といえます。魯粛は「中国は分裂していて良い」と考えました。つまり、それは文字通り、天下を三分して鼎立すること自体を目的としています。
諸葛亮の「天下三分の計」はそれと異なり、まずは天下を3つに分けておき、やがて漢による統一を進めるという「天下統一戦略」でした。劉備はこの策を受け入れることで、蜀建国へと歩み始めたのです。
この大きな転機をもたらしたものが、荆州で過ごした7年の歳月だったのではないでしょうか。挙兵以来、劉備は戦い続けてきたといっても過言ではないですが、この時期だけはほとんど戦っていません。
それを物語るのが、「馬に乗らないから、腿の肉がついてしまった」と劉備が嘆いた「髀肉之嘆」です。しかし、その間にこれまでの経緯を振り返って、じっくりと考えることができたはずです。そして、自分に足りないものを自覚し、諸葛亮の戦略を採用するに至ったのではないでしょうか。
更新:11月23日 00:05