秦王政が立派に成長したのとは対称的に、母太后の淫行は収まらない。呂不韋は災いが身に及ぶことを恐れ、自分の代わりをつとめる男を探しだした。嫪アイ(ろうあい)という巨根の持ち主である。
呂不韋は嫪アイを偽の宦官に仕立て、太后のそばに仕えさせた。太后は嫪アイと私通し、はなはだ寵愛した。やがて嫪アイの子を身ごもると、事の発覚することを恐れ、占いで祟りを避けるようお告げがあったと偽って、雍(よう)の離宮に移った。
嫪アイの下僕は数千人に達し、官職を求めて嫪アイの舎人(しゃじん)となる者も千余人に及んだ。
秦王政の9年、嫪アイと太后の関係を密告する者があった。調べたところ、事実であり、呂不韋もからんでいることがわかった。政は嫪アイの三族を皆殺しにし、太后の産んだ2人の子も殺した。嫪アイの舎人はすべて財産没収のうえ、蜀へ流罪とした。
政は呂不韋も殺そうとしたが、先王に仕えた功績が大きく、また彼のためにとりなす者も多かったことから、極刑を下すのはやめにした。
秦王政の10年10月、政は呂不韋を相国の地位から解任したうえ、洛陽の領地へ追放した。しかし、それから1年たっても、呂不韋のもとには諸侯の客や使者の来訪が絶えなかった。
政は、このままにしておけばいずれは反乱をおこすのではないかと恐れ、呂不韋に書簡を送った。
それには、「あなたは秦に何の功績があって河南に封じられ、10万戸も与えられているのか。わが秦とどんな血のつながりがあるというのか。なぜ仲父と号しているのか。一族とともに蜀へ移住するよう」と記されていた。
呂不韋はしだいに権勢を削られ、しまいには死刑にされるのではないかと恐れ、毒を飲んで自害した。
【故事成語】一字千金
呂不韋は『呂氏春秋』を咸陽の市場の門に並べて、その上に千金をつりさげ、諸国の学のある者を招き寄せ、一字でも増やしたり削ったりできる者には千金を与えよう、と触れを出した。この故事から、すぐれた文章のことを「一字千金」と言うようになった。
更新:11月21日 00:05