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武田信玄の西上作戦 その目的、選択と誤算

乃至政彦(歴史家)

 

信玄の見込み違い

謙信の書状によると、信玄が徳川領へ侵攻する少し前の初夏、将軍・義昭と信長は謙信に、信玄と「越甲一和」を結ぶよう提案していた。すでに信長は謙信と同盟関係にあった。将軍ならびに盟友の要請ならば従うしかない。謙信は信玄との講和を進めることにした。

ところが冬のうちに、信玄が「【意訳】朝倉義景の言うことならともかく、信長の仲介なら同心できない」と返答して謙信を驚かせた。これで講和は途絶する(上越市史1126、1139)。冬までに信玄は三河攻めを決断していたのだから、謙信と講和して味方に引き入れる方が得策だったはずである。だが、なぜここで停戦を打ち切ったのだろうか。

先の謙信書状から経緯を見直すと、次の展開があったと考えられる。

まず信玄が謙信に「信長ではなく朝倉義景に味方すると言えば停戦に応じます。さもなくば手を組むことはできません」と誘いの声をかけた。一見、無理な注文に思えるかもしれないが、信玄は上野秀政を誘い出して翻意させ、将軍を親織田派から、反織田派に切り替えさせるつもりであった。謙信は信長とだけ仲がいいわけではなく、信長と交戦している南近江の六角承禎とも友好的である。そこで武田家と上杉家の両家と交流があり、反織田派筆頭の朝倉義景を持ち出し、「悪いことは言わないから、これからは織田ではなく、我々の陣営に鞍替えしそうな幕府の味方になるほうがいいですよ」と謙信を誘い込もうとしたのだ。

これはとんでもない逆転策である。

関東では北条軍のため、謙信派の領主たちが苦境に立っていた。謙信は救援に向かいたい。だが信玄の工作で、越中加賀の諸勢力が挙兵して八方塞がりとなっている。信玄は謙信に厳しい情勢と、将軍の大義を見せつけることで、転身させたかったのだろう。

しかし信玄の予想通りにはならなかった。謙信が将軍を見限ったのである。この時謙信は将軍よりも信長との関係を重視した。謙信の中では将軍の愚策よりも、信長との信義、そして信玄への不信が先に立ったのである。

謙信は巷間にイメージされるほど、将軍の言動を絶対視していない。義昭の兄・足利義輝が現役の時代、謙信は義輝の一部側近を嫌い、「【意訳】(将軍様の)御側近には、その身に相応しくない不義の方もたくさんいます」と苦言を申し上げた(上越市史193)。謙信は自身の信念に忠実で、それは将軍が相手であっても曲げられることはなかった。

謙信は、にわかにできた義昭と信玄を中心とする「反織田連合」より「織田・徳川連合」と組む道を選んだ。その理由は二つあろう。ひとつは、こんな強引なやり方をする信玄の一派に与するなど、プライドが許さなかった。もうひとつは、信長との同盟が強化されたばかり──というタイミングの悪さである。信玄は、信長に友好的な顔を見せてこれを騙し、油断させて徳川領を攻めた。激昂した信長は、謙信と武田対策を強化する同盟を締結した。

こんな形で上杉・織田同盟が水面下で結ばれていたわけだが、信玄はこの事実を知らずにいた。謙信と信長は同盟強化の誓紙を交換しており、これをすぐ反故にして信玄と仲良くするなど謙信の作法にはないことだった。謙信は信玄が思うより小義を捨てられない男だった。幕府のためという大義があろうとも、盟友を切り捨てることはしなかった。

謙信も、まだ将軍と信長が言うのなら、信玄と講和するのにためらいもなかった。

ところが信玄は「将軍が信長を裏切って朝倉・浅井・本願寺につく。謙信もその陣営に鞍替えしなさい。一緒に軍で孤立した織田と徳川を滅ぼすのです」と囁いた。将軍をこんな外道ルートに誘い込んだ信玄を許しておけようか。また、道を間違えた将軍に従うなど、忠臣ではなく佞臣のすることである。そう思ったことだろう。

ここに謙信は幕府・武田連合よりも、織田・徳川連合に味方する道を選んだのである。

 

西上作戦の破綻と再生案

結果として勝利の女神は信玄に微笑まなかった。三河在陣中、重病に陥って後退を余儀なくされたからである。信濃に移った信玄だが、病状は回復せず、元亀3年(1573)4月12日、死去した。従五位下武田法性院(もと徳栄軒)信玄、享年53。

西上作戦の狙いは上洛にあったという。本当にそこまでの展望があったかは確かな史料ではわからないが、病に苦しむ信玄の心理を考えてみよう。

信玄の戦略は謙信が味方しなかったことで、前途が怪しくなっていた。家康は何とかなる。信長にも勝てるだろう。だが謙信をいつまで足止めできるか不確定で、できるだけ早く織田・徳川を討滅しなければ、ここまで一方的に進めていた形勢は逆転しかねない。

信玄は早期のうちに両家を滅ぼすことを念頭に置いていた。ただ、その先に天下を得ることまでは状況次第という留保つきで、真剣に考えていなかったのではないか。

そもそも体調の悪い信玄に、天下政権への野心がどれほどあったか疑問である。もし自らの手元に転がり込んできたら、誰よりもうまくやっていく自信はあった。だがそれも健康の続く限りである。後継者の勝頼はまだ28歳。たとえ天下取りに成功しても、武田家を天下の中心に置くのはかえって危険であることぐらい理解していただろう。

 

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